『目黒新富士』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第34回
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現代の花見名所の近くにあった富士塚と桜
江戸時代中期から、富士山を神体として崇拝する「冨士信仰」が関東で盛んになり、富士山を登拝する団体「富士講」も多数組まれたという。実際に江戸から富士山まで徒歩で旅をするのは、体力的にも金銭的にも困難だったので、江戸市中には数々の富士塚(模造富士)が築かれて人気を集めたそうだ。神社の敷地などには、今でも当時の姿のまま残っている富士塚がある。
高台の多い目黒は、富士山がよく見えたために富士講が盛んだったらしい。「元富士」と「新富士」という2つの有名な富士塚が造られ、広重は『名所江戸百景』で両方を題材にしている。この絵に描かれた新富士は、択捉島や国後島などを探検したことで知られる幕臣・近藤重蔵が、富士講の信者たちに頼まれて1819(文政2)年に三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2丁目)の下屋敷内に築いたもの。完成するとすぐに露店が立ち並ぶほど、参詣客でにぎわったという。その後、重蔵の長男・富蔵の不始末により、この屋敷を手放すことになった。この絵が描かれた頃の古地図に近藤邸はなく、新富士は三田村の田畠緑地区域に記されている。
広重が描いたのは、三田用水路が取り巻く新富士を左に、本物の富士山を右奥に配した、桜が咲く春の景だ。新富士の上や周りでは、桜や富士山を望む人々が楽しげな雰囲気である。写真は桜が満開の時季に、目黒新富士があった辺りの目黒区立別所児童遊園で撮影したもの。園内には新富士の説明板とともに、その山腹にあったとされる石碑が3つ設置されている。1959(昭和34)年まで残っていたという富士塚も今はもう無く、富士山が見えたであろう方角に桜の木も見えなかったが、コンクリートで造られた大きな滑り台が富士塚を彷彿(ほうふつ)とさせたので作品とした。
●関連情報
目黒川の桜
目黒区立別所児童遊園のある別所坂は、傾斜のきつい坂である。道が舗装されていなかった江戸時代は、雨でも降ろうものなら、上り下りがさぞ大変だったであろう。この坂を目黒川まで下って行くと、「目黒川船入場(ふないりば)」という広場の対岸辺りに出る。ここから目黒通りが交差する目黒新橋にかけては川幅が広く、春には見事な桜並木となる。両岸には中目黒公園、田道広場公園、目黒区民センター公園などがあり、都内でも有数の花見の名所となっている。
この目黒川の桜は、広重の時代から続くものではなく、昭和初期から植樹され始めたという。護岸工事の度に植え替えや植樹が行われ、船入場から下流の桜は平成に入ってから植えられたようだ。しかし、1990年代までは、かなり汚い川であったと記憶している。臭いもひどく、川沿いを歩きたいと思えるような場所ではなかった。95(平成7)年から始まった東京都の清流復活事業によって、今ではかなり水質が改善され、さまざまな魚がすみ、水鳥も集まってくるようになった。近年、中目黒駅付近では、おしゃれなカフェやレストランが立ち並ぶようになったこともあり、若者に人気の桜スポットとしてにぎわいを見せている。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら