『深川三十三間堂』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第28回

歌川広重「名所江戸百景」では第71景となる『深川三十三間堂(ふかがわさんじゅうさんげんどう)』。広重独自の遠近法による珍しい一枚である。

弓道修行が主目的だった江戸の三十三間堂

京の三十三間堂(京都市東山区)は、平安時代後期に後白河上皇が離宮内に創建した仏堂である。鎌倉時代(1266年)に再建された長さ約120メートルの本堂は、中尊の千手観音坐像(ざぞう)の左右に1000体の千手観音立像が並ぶ圧巻の光景で知られている。その三十三間堂が、江戸時代初期(17世紀前半頃)から武芸を競う場にもなったという。長大な軒下を矢で射通す「通し矢(とおしや)」という弓術競技が、武家の間で大はやりしたのだ。

その流行が江戸にも伝わり、浅草に江戸三十三間堂が建てられたそうだ。こちらにも一応ご本尊として千手観音が1体置かれたが、もっぱら通し矢が目的だったらしい。この建物が元禄111698)年の大火で消失したため、深川の富岡八幡宮(はちまんぐう)の東に再建されたのが深川三十三間堂である。通し矢は幕末まで行われていたが、安政江戸地震(1855年)でお堂の一部が倒壊し、競技ができなくなったようだ。再建されないまま江戸時代を終え、明治51872)年には取り壊されている。

広重は、その深川三十三間堂と東の木場付近を俯瞰(ふかん)で描いている。興味深いのは、左から右上に向かう斜めの線が全て平行に描かれている点だ。本来、広重は写実的な遠近法を得意とし、この絵でも遠くの材木などはしっかりと小さく描かれている。つまり、左から右奥へと向かう建物や通りだけ、わざと平行に描いているように思える。三十三間堂を際立たせようとした広重独自のデフォルメなのだろう。

写真は、深川の三十三間堂があった辺りにある横長のビルを、向かいの建物の上階から俯瞰で撮影した。写真の場合、必ず左右方向の遠近感が出てしまうので、元絵と同じ平行の構図にはならない。少しでも元絵に近づけようと画像補整を施したものを作品とした。

●関連情報

京都三十三間堂 大的(おおまと)大会

京都東山区にある三十三間堂では、古くから通し矢が行われていたようだが、記録に残るもので一番古い記述は慶長11年(1606年)。一昼夜で何本の矢を射通したかを競った「大矢数(おおやかず)」など、さまざまな競技が開催されていたようだ。京都では18世紀半ばには廃れてしまったが、江戸では1000本中何本射通せるかを競う「千射」や「百射」などが幕末まで競われていたという。

現在、毎年115日前後の日曜日に、江戸時代の「通し矢」にちなむ「大的大会」が京都三十三間堂で開催される。1951年から始まり、全国の弓道上級者や新成人など約2000人が参加して、60メートル先の大的を狙って競い合う。特に晴れ着姿の新成人が矢を射る姿は、毎年全国のニュースでも報じられ、1月の風物詩となっている。

2018年の「三十三間堂 大的全国大会」 時事通信フォト

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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