
『駒形堂吾妻橋』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第13回
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浅草発祥の地ともいえる駒形堂から吾妻橋を望む
広重は梅雨時の低い雲から降り出した雨の景を、夏を感じさせるホトトギスと共に描いている。駒形堂、吾妻橋、材木町の材木問屋、小間物商「紅屋」の幟(のぼり)看板の配置が絶妙だ。
浅草寺の観音さまが隅田川から示現(じげん)して、最初に祀(まつ)られた場所に建つのが駒形堂といわれる。何度か建て替えられて、2003年に再建されたのが現在のお堂である。広重の時代と比べると隅田川の上流に移っているそうだ。
吾妻橋は江戸時代に隅田川に架けられた5本の橋で最も新しく、1774(安永3)年に造られたという。当初は大川橋と呼ばれたそうだが、江戸の東にあることから東橋(あずまばし)と呼ばれるようになったという説や、吾嬬(あづま)神社につながる橋なので吾嬬橋(あずまばし)と呼ばれたなど諸説がある。広重の時代に作られた古地図の多くには、すでに今と同じ「吾妻橋」と書かれている。
現在、駒形堂と吾妻橋の両方がファインダーに収まる場所はとても限られている。写真は左下隅に駒形堂、その右中央辺りの赤い橋が吾妻橋となっている。元絵のように駒形堂をもう少し大きく配した写真も撮ったが、平成の名所・東京スカイツリーを画面に入れたかったので、この写真を作品とした。
●周辺情報
浅草
浅草寺の門前町として中世から栄えていた浅草は、江戸幕府開府後、1620年に幕府米蔵の浅草御蔵(おくら)が設置されると急速に発展したという。その後、吉原遊郭移転(1657年)や猿若町(芝居町)の完成(1843年)でさらに賑(にぎ)わい、江戸を代表する町の一つとなった。
明治以降も繁栄は続き、1960年代まで娯楽文化の中心地としての役割が続いた。しかし、テレビの普及で映画館や劇場が相次いで閉鎖し、1970年頃から人通りは激減した。隅田川花火の復活(1978年)やサンバカーニバル開催(1981年)で徐々に観光客が増え「江戸風情のある観光地」のイメージが定着した。近年は、海外からの観光客が急増し、平日でも大変賑わっている。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。