ニッポンの朝ごはん

少しばかりの豊かさが、この上ない贅沢に変わる-「他郷阿部家」「群言堂」松場登美の世界

暮らし

島根県大田市大森町。世界遺産「石見銀山」の名前で知られるこのまちは、谷筋の一本街道に、江戸のたたずまいがそのまま残る場所だ。1980年代、都会での消費がもてはやされていた時代に、田舎暮らしの豊かさと面白さをいち早く発見し、行動を起こしてきたのが、「暮らす宿 他郷阿部家」の女主人、松場登美である。

松場登美(まつば とみ)

1949年、三重県生まれ。81年に夫の実家がある島根県大田市大森町(石見銀山)に帰郷。88年、有限会社「松田屋」を設立。98年、株式会社「石見銀山生活文化研究所」を設立し、アパレル事業とともに、古民家再生に取り組む。98年に築200年以上の武家屋敷を買い取り、改修に着手。2008年から「暮らす宿 他郷阿部家」として宿泊を受け入れている。

 

江戸時代の町並みがそのまま残る一本街道

 松場登美が代表取締役所長を務める「石見銀山生活文化研究所」は、ステレオタイプでは語ることのできない不思議な会社だ。本社はJR山陰本線「大田市」駅からローカルバスで30分。敷地内には茅葺きの古民家がどっしりとたたずみ、周囲を田畑と林が囲む。この田舎の原点のような場所から、東京、大阪をはじめ日本全国の都市に、自社ブランド「群言堂」(ぐんげんどう)を掲げた服飾事業を展開しているのだ。

松場登美(以下、松場) 今年(2018年)5月に、会社は創業30周年を迎えました。「山あり谷あり」どころか、「谷あり谷あり、さらに深い谷あり、そして時に小さな奇跡のような山あり」といった年月でしたが、それでも不思議とめげることなく、夢を語り、理想を追い続けてこられました。今も総勢170人ほどの社員とともに、試行錯誤しながら事業を回していますが、能天気な経営者だったことに加えて、幸運に恵まれたのだと思います。

 三重県で生まれ育った松場は、名古屋市のギャラリーに勤めていた時に、松場大吉と出会って結婚。81年に大吉の故郷である石見銀山に移り住んだ。

松場 私にとって石見銀山は縁もゆかりもない土地でした。温暖な三重で育ったので、初めて過ごした山陰の冬の寒さに驚いたことを、今も覚えています。

 江戸時代に銀山として栄華を極めたまちは、明治時代の閉山後に、急激に衰退しました。戦後の高度経済成長からも完全に取り残されて、私が引っ越してきた時、まちには人が住まなくなった空き家が、そこかしこにありました。

 夫の生家である江戸期からのよろず屋を引き継ぎましたが、高齢化が進む中で、昔ながらの小さな店を営むだけでは、娘3人と夫の両親を抱えた暮らしは、なかなか成り立ちません。そこで、私が家事の合い間に縫いためた小物やエプロンを、夫がワゴンに積んで、駅のコンコースや百貨店の催事で売る行商を始めました。売り上げは徐々に上がり、89年にはよろず屋の向かいにあった古民家を買い取って、ショールームを兼ねた「本店」を開くことができました。その時に、銀行から借り入れた投資額は、年商とほぼ同じ。周囲からは無謀だと呆れられましたが、その投資が「まちおこし」ブームの先駆けになったのです。

山間の一本街道に江戸時代の町並みが残る

街道沿いにある「群言堂 石見銀山本店」

 石見銀山は知る人ぞ知るまちとして、その評判が県外にも広まっていった。松場夫妻は事業の利益を店舗の改修に回しながら、近くに空き家が出たら買い取ったり、解体されかけていた茅葺農家を広島県から移築したりと、古い町並みを活かしながら、自分たちのアイデンティティーを磨いていった。

松場 田舎というと、情報に遅れたつまらない場所、というイメージがまだあった時代でしたが、私にとっては全然そうではありませんでした。まちのお年寄りは「ここは何もないところで」なんて謙遜されますが、近隣は海の幸、山の幸とおいしいものの宝庫。野に咲く花々、夜空の星々は、信じられないほどきれいですし、古い家の蔵からは、昔の人が大切に使っていた食器や布が出てきて、インスピレーションを刺激されました。

「復古創新」という言葉をテーマに掲げていますが、このまちはまさに古きを活かして、新しきを創り出す舞台だと思いました。

 たとえば本店のはす向かいにあった、ぼろぼろの古民家を取得した時は、あえて電気、水道、ガスという「文明」を引かないで、「接待所」に設えてみました。夜は蝋燭(ろうそく)を灯し、囲炉裏を囲んで、お客さま、まちの人、スタッフが集い、談笑する。暗い中で耳を澄ますと、側溝を流れる水の音が聞こえてきて、風流でしたよ。

 広島県から築260年の豪農屋敷を移築した時は、茅葺や土壁作りなど、日本の職人技を間近で堪能しました。93年から年に1回、10年続けたイベント「鄙のひなまつり」では、昼に農山村で生きる女性たちのディスカッションを行い、夜は毎回、その茅葺の家で大宴会を催しました。

 石見銀山は時代に取り残されたがゆえに、古いものがそのまま残った。中途半端に開発されたまちではなく、本当にさびれた田舎だったところが、逆によかったのだと思います。

「群言堂本店」の玄関のディスプレイ

電気・水道・ガスという「文明」を排した接待所

古民家再生とは、建物だけでなく、暮らしを再生すること

 本店と同じ街道沿いに「阿部家」を取得したのは98年。島根県の史跡に指定されていた築200年以上の武家屋敷は、誰も住まなくなってから久しい時が流れていた。

松場 門をくぐり、玄関の木戸を開けると広い土間になっていて、右手に畳の間が続く。土間を進むと台所で、その奥には大きな蔵がある。品格のあるお屋敷でしたが、廃墟という言葉がぴったりで、幽霊が出そうでした。それでも、取得することに迷いはまったくありませんでした。

 蔵の2階に寝泊まりして、職人さんと一緒に、一つひとつ改修に取り組んでいきました。まず、雨漏りがひどくてね。土壁を新建材に代えたらいい、と言われましたが、その土壁こそが財産であり、それを後世に伝えるのが私の役目だと、ふんばりました。

 古民家の改修とは、非効率極まりない作業です。その作業を続けながら、自分にとって何が本当の価値なのか、そこに暮らす意味は何なのかと、自問の日々でしたね。そんな地道な時間を過ごす中で、古民家再生とは建物の再生だけでなく、そこでの暮らしの再生である、ということに思いが至っていったのです。

「阿部家」では、家が喜ぶ使い方をしたいと思いました。それは「捨てない暮らし」のことだと考えました。このまちには、豊かな自然や美しい町並み、心のこもったお付き合いなど、都会が捨ててしまった宝が山ほどあります。それらをまた、一つずつ拾って、丁寧に磨いていこう。そして、それをまた次の世代に手渡していこう、と思いました。

「他郷阿部家」の玄関アプローチ

衣装蔵を改装した客室

チェックインの時に手渡されるパジャマ「くつろ着」の包み。歯ブラシは豚毛製

共用の洗面所

若い世代がまちと会社を継承していく

 取得から10年後の2008年に、この家は宿「他郷阿部家」として営業を始めた。以来、松場は、昼は本社で経営業務に、夜と朝は阿部家で客人のもてなしに、という日常を刻み続ける。

松場 夫と私がこのまちで取得し、再生した古民家は、これまでに10軒ほどになります。その中には、社員の寮として活用している古民家もあります。この4月には、もとはお医者さんだった古民家を再生して、一棟貸しの宿「只今加藤家」もオープンしました。「阿部家」と同じく、土間におくどさん(かまど)を設けて、台所には自炊用の一式を揃えています。

 時代の変化でアパレル事業が大変な中、古民家の取得と再生は、分不相応な投資でもありますが、私も夫もここの町並み全体、景観全体を残していきたい。その意味で、このまちで仕事をしながら、暮らしながら、出会っていく方々こそが、私たちの財産なのです。

「阿部家」にお客さまを迎えて、嫌な思いは一度もしたことがありません。「阿部家」では、台所のおくどさんの横で、宿泊の方々と一緒にお夕飯、朝ごはんをいただくようにしています。たとえいらした時に表情がこわばっていた方でも、「阿部家」で食卓を囲み、一晩を過ごすと、雰囲気が和らいでくるんです。

 今は日本全国にユニークな宿ができています。激しい価格競争がある一方で、贅を極限まで尽くすような宿もあります。「阿部家」の料理は宿料理というよりは家庭料理であり、また宿泊の料金も決してお安いものではありませんが、ある時、お泊りになったお客さまが「ここはお金の匂いがしないところがいいね」と言ってくださいました。スタッフとともに、心を尽くして建物を守っている中、その言葉がずっと私の胸に留まっています。

日本の古民家は陰影を味わう空間

秋から春先にかけては火鉢が活躍

古材から切り出したガラスをパッチワークにして再生

蔵の土壁に昔ながらのカゴやザルをかけて

夜は土地のもの、季節のものを使った料理が次々と供される

おくどさんで炊いたごはんで結ぶおむすびは、最高のごちそう(© 他郷阿部家)

 ブランドネームの「群言堂」は中国の言葉で、大勢の人間が知恵を出し合って、一つの世界を作り上げていくという意味。「他郷」も同じく中国の言葉で、故郷ではないが、故郷のように自分を迎えてくれる土地という意味だという。

松場 本社には今、50人の社員がいます。地元出身がもちろん多いのですが、県外から、または中国、台湾など国外からと、いろいろなところから集ってきてくれています。本社の敷地には田んぼも畑も作り、社員全員で作物を育てています。イノシシの罠猟の免許を取った社員もいて、里山の暮らしを楽しんでいます。その中で、20代、30代がうちの会社に興味を持ち、ここに移住し、勤めてくれている、ということがうれしいです。

 まちの人口はこの10年で460人から400人と、さらに減少しました。地方の過疎は、ここだけでなく、日本が抱える課題です。ですが、石見銀山では若い世代の移住が増えているので、見通しは暗くないのです。ここに移住して、家庭を持ち、子育てをする人が増えることで、年代別の人口構成でいえば、生産年齢人口と、その子どもたちの人口の層が厚くなっている。私の3人の娘もここで子育てをしている最中で、今は私も8人の孫のおばあちゃんです。

 石見銀山に暮らしていると、刻一刻と変化していく四季に敏感になります。ここに初めて来た時、冬の寒さに驚いたと最初にお話しましたが、3月になると、山陰の暗く厳しい冬が、薄紙をはぐように明けて、まちのいたるところに光や芽吹きが感じられるようになります。そこから、開放感に満ちた夏、実りの秋を経て、また寡黙な冬に戻っていく。その季節のめぐりの中に、小さくともさまざまな暮らしの楽しみがある。私の人生と切り離せない、かけがえのない土地なのです。

「石見銀山生活文化研究所」本社。敷地内には堂々たる茅葺家屋があり、その庭先で社員の飼う犬がのんびりと陽を浴びている

本社のスタッフたちと、松場登美(右)、大吉夫妻

(文中敬称略)

取材・文:清野由美 撮影:楠本涼

<情報>

暮らす宿 他郷阿部家

〒694-0305 島根県大田市大森町ハ159-1
電話 0854-89-0022
ウェブサイト https://kurasuyado.jp/takyo-abeke/

群言堂 石見銀山本店

〒694-0305 島根県大田市大森町ハ183
電話 0854-89-0077
ウェブサイト https://www.gungendo.co.jp/

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