【書評】「冷戦」とは、何であったのか—(後編):ジョン・ル・カレ著『寒い国から帰ってきたスパイ』
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(前編から続く)
犯罪者に落ちぶれたリーマスは、すっかりムントへの復讐を諦めてしまったのだろうか?
オランダで予備尋問
三カ月後に刑務所を出たその日のこと。さしあたってリーマスには帰る場所がない。
ロンドン市内の公園を歩き、わずかな所持金で食事をしようと思っていたところへ、声をかけてきた男がいた。
かつてベルリンで、リーマスに世話になった記者のアッシュと名乗る。
リーマスの手持ちの金は底をついている。アッシュは彼に仕事を紹介した。ヨーロッパでニュースを配信する会社を手伝ってくれと言う。
雇い主は別にいた。サム・キーヴァと名乗るドイツなまりの英語を話す男。
リーマスは、キーヴァが用意した偽造パスポートで、オランダのハーグ空港に降り立った。
空港で待ち構えていたフォルクスワーゲンに乗せられ、海岸に近いバンガローに連れていかれた。
ここでリーマスは、ピーターズという男に引きあわされる。軍人のようだ。
リーマスは、気づいていた。東側の連中が、自分を抱き込もうとしている。彼らは、多額の報酬を約束する代わりに、情報提供を迫ってくることだろう。
三日間にわたって、リーマスはバンガローに軟禁され、ピーターズの尋問を受ける。英国情報部の組織について。リーマスが東独でかかわった作戦について。情報を細大もらさず搾り取ろうとする。
リーマスは、細心の注意を払って答える。相手に、自分には利用価値があると思わせなければいけない。
敵もさる者、リーマスの言葉の裏を読み、矛盾点を突きつける。
こうした執拗な尋問の応酬シーンが、ル・カレ作品の真骨頂である。積み重ねられた会話のなかに、諜報活動の実相が凝縮されているのだ。
リーマスは追い詰められる。
ピーターズは、リーマスが国家秘密保護法にかかわる犯罪で、当局から指名手配されていると告げる。彼が祖国を裏切ったと密告した者がいるらしい。
ロンドンの夕刊紙に顔写真つきで彼の手配が掲載されている。管理官(コントロール)の仕業にちがいない。
リーマスは英国情報部から追われる身となっていた。
ピーターズは言った。
「このさいきみのとる道はふたつにひとつだ。われわれに身柄をあずけ、将来の安全をわれわれの手にゆだねるか。それとも、きみ自身で身を守るか。そのどちらかをえらばなければならん」
もはや東側に寝返るしか選択肢はなかった。
リーマスは東ドイツの情報機関のワナにはまった。いまさら後戻りはできない。
ここまでは予備尋問だった。
リーマスは、ピーターズとともに、ハンブルク経由ベルリン行きの旅客機に乗り込んだ。
再び「寒い国」へ
リーマスは、黒塗りのメルセデス・ベンツに乗せられ、東ドイツ情報部の施設に連行された。
これから本格的な尋問が始まる。担当者として目の前に現れたのが、対敵諜報課長のフィードラーだった。
そして、いよいよ宿敵のムントが登場する。リーマスにとって初対面のムントは、強烈な印象だった。
「その身辺にまつわりついている冷酷さ、つよい自己満足の態度は、あきらかに殺人者の特徴である。ムントは完全に非情な男なのだ」
いよいよリーマスは、敵側の懐に飛び込んだ。
ここから先の展開が、本作の読みどころであり、もはやこれ以上、ストーリーを紹介することは不可能だ。
こののち、管理官やジョージ・スマイリー、ピーター・ギラムらが編み出した、ムントを追い落とすための作戦の全貌が明らかになっていく。
しかし、インテリジェンスの世界はそんな単純なものではない。そこには、欺瞞、偽装、虚言、詐術、裏切り、ありとあらゆる謀略が渦巻いている。
リーマスの自堕落な生活は、敵をおびきよせるための偽装だった。これがそもそもの作戦のスタート。再び「寒い国」へ向かう。フィードラーを欺き、味方につけてムントを失脚に追い込む。
あらかじめ管理官らと打ちあわせたシナリオだ。
だが、リーマスには、本人にも知らされていない重要な役割があった!
ここではそれしか言えない。
読者は、あまりにも巧緻に練り上げられた仕掛けに唖然とすることだろう。
「これはきみ、戦争だよ」
ここで最初の問いかけ。「冷戦」とは、何であったのか。
教科書で教えるのは、西欧デモクラシーと共産主義との対立ということではあるけれど、ル・カレが本作を通して描こうとした「冷戦」は、どちらの側に正義があるかというような表層的な視点ではない。
いくつか、登場人物のセリフをかりてみよう。
フィードラーは、リーマスに言った。
「われわれの仕事は(略)すべて、全体が個人より重要だという理論に根拠をおいている。だからこそコミュニストも、情報機関をその腕の延長と考えている。きみの国の情報部にしたところで(略)個人の犠牲も、全体のために必要とあれば正当化されると考えるのはおなじことだ」
これがスパイ活動の本質である。西側であろうと、東側であろうと。
リーマスは、自身も欺かれていたことを悟ったとき、ムントに向かってこう言った。
「スマイリーの言葉は正しかった。攻撃への攻撃、報復にたいする報復、これは永久にくりかえされて、停止するところがない」
現場のスパイというものは、作戦上のコマにすぎない。全貌を知っているのは上に立つ一握りの権力者のみだ。
しかし、リーマスは、本物のプロフェッショナルであった。あらたな事実を知って苦悩しながらも、西側の大義のために任務を果たす。
彼は、リズにこう打ち明ける。
「(略)卑劣、醜悪な作戦だったことはまちがいない。だが、その効果はあった。それだけが、おれたちにとって唯一の法則なんだ」
リズはリーマスを非難する。
「利用できる人間のヒューマニティを、そのまま自分たちの武器にかえて、人殺しのためにつかおうというのよ」
「これはきみ、戦争だよ」
と、リーマスは反論する。
「小規模の、至近距離での戦闘だから、不愉快な局面がいっそう痛切に感じられるだけだ。ときにはそれが、罪のない人間の命を奪う場合もある。だが、そんなこと、問題にならん」
そしてポツリとこう漏らすのだ。
「人類はこの世がはじまって以来、おなじことをくりかえしている」
国家の利益のために、個人が犠牲を強いられる。共産主義だけでなく、西欧デモクラシーの世界でも、じゅうぶん起こりうることなのだ。
そうした現実は、いまも変わってはいないのではないか。
ジョン・ル・カレは1931年生まれ。63年に出版された本作は
彼の経歴は、1956年に英国情報部に入り、61年に二等書記官
このときの経験が、本作の下敷きになっているのであろう。
作戦は、すべてシナリオ通りに進んだ。唯一、想定外だったのが、リーマスとリズの「関係」だった。これは「偽装」とか「欺瞞」などではなく、まぎれもなく二人だけの「真実」だった。
だからこそ、本作のラストシーン、これはスパイ小説史上、屈指の名場面だと思う。