【書評】Dデイ欺瞞工作を描いた傑作スパイ小説(前編):ケン・フォレット著『針の眼』
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今回もまた、過去の傑作スパイ小説の紹介となるが、物語の背景となるDデイをめぐるイギリスとドイツの熾烈な情報戦は、史実としても極めて興味深い。
『針の眼』は、歴史的事実を踏まえて一匹狼の凄腕スパイを主人公にすえ、英独情報部の暗闘をスリリングに描き切っている。
結末にいたるまで一気に読ませ、とにかく面白い!
1978年に刊行された本作は、古今東西のスパイ小説のジャンルで読者による人気投票を行ったら、必ずベスト10に入る名作である。
それでは、本作をより楽しむために、当時の国際情勢を少々ひもといておこう。
1944年は、欧州を舞台にした第二次大戦の帰趨を決する分水嶺となった。
ナチスは4年前にフランスを占領したものの、その後の戦況は悪化の一途をたどる。ついにこの年、連合軍がイギリスから海峡を渡って反転攻勢に出るのは必至の情勢となり、いよいよフランスが最後の主戦場となろうとしていた。
これで一気に独軍を敗走に追い込めるか。連合軍にとっては、「史上最大の作戦」となる。
いったい上陸地点はどこになるのか。連合軍を迎え撃つドイツは、精度の高い情報が喉から手が出るほどほしい。
作戦上、もっとも可能性が高いと考えられるのは、フランス北部のパ・ド・カレーの海岸。イギリス南東部の海岸からドーバ海峡を最短で渡ることができる。
南部のノルマンディーもありえた。ここは砂浜の海岸線が広大で、大規模な上陸部隊が迅速に内陸へ展開するのに適している。
実際に、1944年6月6日のDデイで連合軍が上陸したのはノルマンディーで、1日にして欧州奪還の橋頭堡を築いたのは周知の通り。
上陸地点をナチスに事前に察知され、精鋭部隊に待ち伏せされたのでは作戦も失敗に終わってしまうので、当時の連合軍は敵に悟られることなく上陸することを目論んでいた。
そこで、イギリスの情報機関は作戦を成功に導くため、「上陸地点はカレーの海岸」とナチスに信じ込ませようと盛んに偽情報を流していたのである。
その手法はいかなるものだったか。
ダブル・クロス・システム
このあたりの歴史的事実は、元英タイムズ紙の記者で作家ベン・マッキンタイアーによる『英国二重スパイ・システム~ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦』(中央公論新社2013年10月初版、以下『欺瞞作戦』)に詳しい。
是非読んでいただきたい一冊だが、同書によれば——。
ドイツの情報機関アプヴェーアは、上陸地点を探り出すため、大勢のスパイをイギリス本土に送り込む。ある者は空からパラシュート降下で。またある者は海岸線から密入国して。
一方のイギリスの防諜組織MI5は、忠誠心の高い味方スパイをアプヴェーアに潜り込ませることに成功する。あるいは摘発したナチスのスパイを二重スパイに仕立て上げ、彼らを利用して本国が偽情報を信じるよう仕向けた。
英国情報部は、潜入するナチスのスパイをことごとく逮捕している。なぜなら、イギリスの暗号分析官は、ドイツの暗号機「エニグマ」の解読に成功し、極秘情報を読めるようになっていたからだ。
逮捕されたスパイは、処刑されるか二重スパイになるかを迫られた。
二重スパイの運用実務を担当したのが、1940年に設立されたMI5内の「B1A」というセクション(『針の眼』でも、「セクションB=1(a)」という表記で出てくる)で、彼らの仕事は「ダブル・クロス・システム」と呼ばれていた。ダブル・クロスとは「裏切り」を意味している。
立案者にしてセクションのリーダーは、元軍人で1933年にMI5に採用されたター・ロバートソン。彼らが操った二重スパイは数十人におよぶという。
さらにダブル・クロス・システムを監督する秘密組織として、1941年に二十(XX・ダブルクロスの意味)委員会が設立されていた。
委員長には、オックスフォード大学の歴史教師のジョン・マスターマンが就任し、委員会は陸海空各軍の情報部、MI5、MI6などの各代表で構成された。
1943年3月、二十委員会からチャーチルに提出された月例報告書には、
「総計で、これまでに一二六人のスパイが我々の手に落ちた。このうち二四人が改心可能と見なされ、現在はダブル・クロスの工作員として活用されている。」
と、記されている。
そしていよいよ、1943年11月、英米ソの三巨頭、チャーチルとローズベルト、スターリンがテヘランで会談し、ノルマンディー上陸作戦(暗号名「オーヴァーロード作戦」)の実施が決定された。
米アイゼンハワー将軍が連合軍最高司令官、英モントゴメリー将軍が連合軍地上軍司令官に任命される。
テヘラン会談で、チャーチルはこう発言したという。
「戦時では、真実は極めて貴重であるため、嘘というボディーガードで常に護衛しておかなくてはならない」
「Dデイの上陸作戦は、広範囲にわたる世界規模の欺瞞作戦、つまり真実を守る数々の嘘から、援護と支援を受けることになった。この作戦は、チャーチルの発言に敬意を表して『ボディーガード作戦』と命名された。」(『欺瞞作戦』より)
そして、「ボディーガード作戦」のなかでも欺瞞工作の核となる上陸作戦の秘匿は、「その成功に何よりも不屈の精神(フォーティテュード)が欠かせない」ことから「フォーティテュード作戦」と命名される。
こうした委員会や作戦名は、『針の眼』にもたびたび登場する。
『針の眼』が描く1944年。イギリスは、カレー対岸のイギリス南東部沿岸に大規模な軍隊、パットン将軍率いるアメリカ第1軍が集結しているという偽情報を流すと同時に、上空から偵察するとそれが事実であるかのように見せかけるため、板やゴムで作った擬製の上陸用舟艇、戦車、戦闘機を大量に並べていた。
小型の短剣スティレット
これだけの予備知識があれば、すんなり小説の世界に入っていけるだろう。
主人公はドイツ情報部員のヘンリー・フェイバーで、階級は陸軍中佐。情報将校としての暗号名は「針」だが、本人は、身許特定のヒントになりかねないそのコードネームを嫌っている。
他の工作員とは一切かかわらず、常に単独行動で成果を上げてきた。
任務遂行のためなら殺人も厭わないし、そう訓練されている。
Dデイが設定された1944年、数年前からロンドンに潜伏していたフェイバーは、39歳独身の鉄道事務員という触れ込みで、レンガ造りの3階建て最上階の部屋に下宿していた。
ここは街中でも小高い丘の上に建っており、ドイツ本国にあるアプヴェーアの無線基地と交信するのに適していた。
さて、冒頭から、緊迫した場面が動き出す。
ある日の午後10時過ぎの自室、フェイバーは小型無線機でイギリス軍の動向を暗号文で本国に送っていた。
そこへ下宿屋の女主人が突然、部屋を訪ねてくる。彼女は30代の未亡人で、フェイバーに好意をもっていた。彼女の見るところ、
「彼はなかなかのスタイルをしている。長身で、首と肩は贅肉がそがれてしかもたくましく、脚も長い。(略)映画スターのような二枚目ではないが、女性にアピールする顔というのか。ただ、口だけは小さくて唇が薄く、酷薄な印象を与えていた。」
ところが、意を決して、はじめて忍んだにしてはタイミングが悪かった。
未亡人が合鍵を使っていきなり入ってきたために、フェイバーは無線機を隠すことができない。
彼は、無言のうちに彼女を抱き寄せると、錐のような小型の短剣スティレットで心臓を刺し、さらに喉元を切り裂いて殺害した。
スティレットによる殺人は、彼の代名詞のようなもの。
そして、性犯罪者の仕業のように偽装すると、そのまま逃走する。
「ささいなことが重要」
そして、「針」の視点と並行し、追っ手の視点として英情報部の動きが描かれる。
ここでイギリス側の主人公として登場するのが、パーシヴァル・ゴドリマン教授。中世英国史の研究家で10年前に妻に病死で先立たれ、いまは独身。
1940年の秋、ゴドリマン教授は、叔父にあたる陸軍情報部のテリー大佐に誘われ、MI5に入る。
教授は、情報部の仕事をこうみている。
「そこに面白いことがないわけではない。ささいなことが重要だという点、緻密で鋭い理性と、細心さと、推理力を要求される点がそうだ。」
テリー大佐は、ゴドリマン教授に任務を説明する。
摘発したドイツのスパイを二重スパイとして使えないか。
「二つの決定的な利点がある。敵は自分たちのスパイがまだ機能していると考えるから、別の人間を送り込もうとしない。それに、彼らが工作管理官に伝える情報はすべてわれわれが提供するのだから、敵を欺き、向こうの作戦立案者をミスリードすることができる」
まさしく、「ダブル・クロス・システム」のことである。
ゴドリマン教授の相棒が、元ロンドン警視庁公安部警部補のフレデリック・ブロッグス。金髪で、背は低いががっちりとした体形。妻を独軍によるロンドン空襲で失っている。
ゴドリマンの情報分析と推理をもとに行動するのがブロッグスの役目であり、彼は教授の手足となって獅子奮迅の活躍をする。
これで主要な登場人物のおぜん立てが整った。ここから物語の核心部分、いよいよDデイをめぐる情報戦に突入するというわけだ。
(後編に続く)