日本の刑事司法を問う

「人質司法」「冤罪」「再審」「死刑制度」を考える

社会

今回で最後となる村井敏邦・一橋大学名誉教授と村岡啓一・白鴎大学教授との対談では、刑事司法に関わる4つのキーワードについて話を聞いた。“冤罪の温床”と批判されてきた「人質司法」、国家の犯罪と言われる「冤罪(えんざい)」、“開かずの扉”と揶揄される「再審」、国際社会から強く廃止を求められる一方で、国内では約8割が容認する「死刑制度」がそれだ。

「代用監獄」支えた責任は弁護士にもある

——虚偽自白の温床という点では、代用監獄制度も長く問題視されていますが、その実態についても考えを聞かせてください。

村井  代用監獄は国際社会から厳しく批判されています。実は、代用監獄と言われる警察の留置場は最近きれいになっているし、警察官は弁護士の接見などで時間的な融通を利かせてくれる。本来勾留されるべき拘置所は規則を非常に厳密に運用するため、弁護士が時間外に行くと被疑者に会わせてくれません。だから、代用監獄があってもいいじゃないか、という声はあります。しかしそれは拘置所の規則の運用の問題で、そもそも被疑者の身柄を警察、捜査官の手元に置いているということが決定的な問題なのです。

村岡  確かにこの制度を支えてきた責任の一端は弁護士にもあります。捜査機関にも、留置場で手厚くケアしているのだから、むしろいいじゃないかという発想があります。しかし、国際社会からの根本的な批判は、どうして敵の陣地の中での身柄確保を認めているのか、フェアじゃない。その結果、冤罪の温床にもなっているでしょう、ということです。

冤罪が生まれる原因と再審をめぐる問題

——日本で起きる冤罪の場合、司法制度に起因する問題はあるのでしょうか。

村井  刑事弁護専門という弁護士は、ほとんどいません。日本では刑事弁護の比重が低いところに問題があると思います。刑事弁護は報酬にならない。私も冤罪事件を扱ったことがありますが、手弁当で報酬はもらえません。だから冤罪事件に一生懸命になる弁護士がほんの一握りになってしまう。財政的な基盤がない若い弁護士は刑事弁護をやりたくてもできないのです。

村岡  日本で起きる冤罪の原因にはいろいろありますが、死刑台から生還してきた4件の冤罪事件に共通する原因は虚偽自白でした。また最近、再審が開始された事件で問題になったのは鑑定の誤りです。

日本の4大死刑再審事件

免田事件 1948年、熊本県人吉市で夫婦が殺害され、娘2人が重傷を負った事件。免田栄さん(逮捕当時23)が6次に及ぶ再審請求の結果、83年に無罪を勝ち取った。在監期間は約35年。裁判所は虚偽の自白を信じ、アリバイ証拠を無視した。
財田川事件 1950年、香川県財田村で一人暮らしの男が強殺された事件。谷口重義さん(逮捕当時23)が再審を求め、84年に無罪判決が出た。在監期間は約34年。別件逮捕、長期の拘束後に谷口さんが「自白」した内容は、犯行状況と矛盾していた。
松山事件 1955年、宮城県松山町で一家4人が殺害され、放火された事件。斎藤幸夫さん(逮捕当時24)は約29年後に無罪を勝ち取った。別件逮捕、自白の強要、同房者の自白勧誘があり、再審では警察の証拠隠しも認定された。
島田事件 1954年、静岡県島田市内で6歳女児が性的暴行を受け殺害された事件。赤堀政夫さん(逮捕当時25)が約35年後に再審決定を勝ち取り釈放された。死刑判決は問題のある法医学判定に従った結果で、再審では自白調書の信用性が否定された。

(nippon.com編集部が作成)

現在、日本で再審をめぐって問題視されているのが、検察官の不服申立のあり方です。再審開始の決定が出ても検察官は不服の申し立てをすることができる。これを即時抗告といいますが、せっかく再審請求審で開始決定が出ても、検察官の不服申立により確定まで時間が延びるわけです。それ自体が一つの不利益です。場合によっては不服申立の結果、いったん開いたはずの開始決定が取り消されることもあるのです。

裁判所が一度冤罪の「疑いあり」と言ったのであれば、その一つの判断だけでも、再審を開く理由になり得るのではないかと思います。再審事由を認めることは、有罪確定判決に異を唱えることですから、裁判所にとっても、無罪判決を書く以上に大変なことなのです。その判断を尊重すべきです。再審開始決定は入り口で、次の再審公判が予定されているのですから、検察官はそこで争えばいいのです。

狭められる再審開始の背景に99.9%の有罪率

——過去の過ちを正すことは当然のことだと思いますが、再審に対して裁判所はあまりにも慎重すぎるように見えます。

村井  残念ながら、そう見ている国民はほとんどいないのではないですか。再審無罪の決定が出ると、多くの国民は「何でいったん有罪にしたものをひっくり返すのか」という思いではないですか。法律を学んだ私の知人でさえ、同じようなことを言います。過去の間違った裁判の方を批判しないのです。再審の意味を全然分かっていない。

村岡  裁判所側に、自分たちは誤らない、という無謬性の神話のようなものがあるのでしょうね。再審開始の理由になっている、新証拠の明白性について、裁判所は50対50ではダメで旧証拠の価値を大きく超えなければ「合理的疑い」は生じないとします。そのため、入り口がどうしても狭められている。この背景にはやはり99.9%の有罪率という有罪心証が大きく影を落としていると思います。

これまで冤罪が確定した人たちに対して、事件を担当した警察官、検察官、裁判官が一度として謝った例がないというのも驚くべきことです。「自分たちは間違っていない」という、信仰にも似たような認識が消えないのでしょうね。

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