返還50年、小笠原諸島の今昔物語

日米2国間で揺れ動いた小笠原の歴史を語り継ぐ=大平京子・レーンス親子

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ルディ・スフォルツア 【Profile】

米国から返還されて50年を迎える東京都・小笠原諸島。戦前から戦後の米軍統治時代、そして返還から現在に至るまでの島の歴史を、父島の「欧米系」島民、大平京子・レーンス親子の2世代にわたる体験から振り返る。

大平レーンス:米国と日本の間で揺れ動いた青春

かつて多くの欧米系島民が暮らしていた父島の奥村地区は、「ヤンキータウン」と呼ばれていた。大平レーンスさんは同地に建てたバーにその名を付けた。

「この店は3年かけて、全部俺一人で組み立てたんだ」と、タバコを片手に誇らしげに言う。

バー「Yankee Town」のエントランス。島の中心地・東町から歩いて10分ほどの道路沿いにある

バーカウンターに立つ大平レーンスさん

レーンスさんが生まれたのは米国統治時代の1950年。前述のように、当時は欧米系島民と軍関係者のみが島で暮らすことを許可されていた。

「言葉はおふくろとは日本語だったけど、学校は英語、友達とは時々日本語が混じっていた。あの頃は食料や飲み物に限りがあったから、肉を食べたい時はおやじや友達と銃を持ってイノシシを狩りに行ったよ。あとはカヌーに乗って自由に魚を釣っていた。洋服とかの買い物は Sears Roebuck(シアーズ・ローバック=米国の小売企業)のカタログを見て注文した。サンフランシスコ経由で送られるから時間もかかったよ 。でも不自由と感じることはなかった。必要な物の手配や学校、家を建てるのもアメリカ海軍は手伝ってくれた。島に住んでいた俺たちにいろいろとよくしてくれたよ」

不便でも自然の中で自由に暮らせたことが何より楽しく、居心地が良かったと言う。しかし、島で授業が受けられたのは中学1年まで。2年次にグアムの学校に転校した。

「初めて島の外に出られるってことで楽しみだったよ。でも実際には腹が立つことも多かった。他の島から来た俺たちに対して、地元のやつらはしょっちゅう文句をつけてきた」

それでも、グアムの学校に通い続けるしかなかった。高校2年の時に小笠原が日本に返還されることになり、グアムに移り住んでいた小笠原の島民はそのまま残るか、小笠原に戻るかを選択できることになった。

「卒業したら島に帰ることは決めていた。もし小笠原が日本になるんだったら、日本語を勉強しておいた方が将来役に立つ。父島には日本の高校ができて、自分は高校生活がまだ1年残っていたからちょうどいいと思ったんだ」

そして68年6月26日、返還の日に、グアム・小笠原間の最後の飛行艇に乗って小笠原に戻った。

小笠原こそ最後に帰る場所

高校を卒業してから島で就職したレーンスさんだったが、次第に変化していく島の環境に戸惑いを感じたと言う。日本の組合や組織などが新しく設立され、島全体が国立公園に指定されるとかつての自由さが失われ、さまざまな制限が設けられた。例えば銃を使った狩りの禁止、特定の森や地域への立ち入り禁止などの規制だ。自分が暮らしていた頃の世界が失われていくような感覚の中で憤りを感じるようになり、ついに米国へ渡ることを決める。

米国陸軍に入隊、ドイツに駐留したこともある。除隊後に米国籍を取得、一時は米国永住を考えたが、1994年に帰島した

渡米の理由を聞くと、「あの時、俺は自分自身がアメリカ人であるという意識を持っていた。生まれた時の島はアメリカだったし、学校もずっと英語だった。戻ってきた時の島は、自分のいるべき場所じゃないと思った。だからアメリカに行って、軍隊に入ることを決めた。あの軍服を着ていた時は誇り高い気持ちになった。でも、それも最初の数年だけだった 」と語った。

正式に米国人となり、その後20年ほど米国で暮らした。それでも小笠原のことは常に頭の片隅にあったという。

「きっと頭のどこかで、自分が最終的に帰る場所は小笠原だと最初から分かっていた。俺はボニン・アイランダーだからな」

そして1994年に父島に戻り、 先祖から引き継いだ土地に自分の世界が詰まった居場所、「ヤンキータウン」を作り上げた。

京子さんもレーンスさんも、「私はこの島の人間」「俺はボニン・アイランダー」という確固たるアイデンティティーを持っている。

戦争、そして日本と米国に翻弄(ほんろう)された過去を持つ島で生まれ育った親子。しかし時代によって周りの世界が変化しても2人の中で揺るがなかった部分は、「小笠原」と「ボニン・アイランズ」という2つの名前を持つ島が自分たちの居場所であるということなのだろう。

今年は小笠原返還から50年。今では内地から移住してきた若い世代の島民も増えてきた。新しい未来が築かれていく実感と同時に、大平京子・レーンス親子のような島民たちの文化が少しずつ忘れられていく感覚もある。時代は移り変わるものだから、それも仕方がないかもしれない。しかし彼らの物語を知り、その話を語り継ぐ人たちがいる限り、ボニン・アイランズの過去と記憶は生き続けるだろう。

バナー写真:父島のバー「Yankee Town」でインタビューに答える大平レーンスさん

(2018年6月 記/写真:伊関毅)

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1981年東京生まれ。父はイタリア人。スイスの高校を卒業後、東京で大学に通う。紆余曲折を経て2012年に小笠原に移住。現在は父島に住み、日英翻訳や英会話を教える仕事をしている。16年、「小笠原の島民による、島民の目を通して見る小笠原諸島のローカル・フリーペーパーORB 」を創刊。現在は第3号まで発行されている。 

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