日米2国間で揺れ動いた小笠原の歴史を語り継ぐ=大平京子・レーンス親子
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「ボニン」「小笠原」の2つの名前を持つ島々
2011年に世界自然遺産に登録されてから、「小笠原諸島(Ogasawara Islands)」という名前は日本だけではなく海外でも認知されるようになった。今ではこの島固有の自然、そしてクジラやイルカ、海鳥といった動物たちを見るために外国から訪れる人も増えた。しかし、「小笠原」は聞いたことがあっても、かつてここが「ボニン・アイランズ(Bonin Islands)」と呼ばれていたことを知っている人は多くないだろう。
最初の小笠原の定住者は日本人ではなく、ナサニエル・セーボレーという米国人らが率いる欧米諸国や太平洋の島出身者たちの一行であった。1830年、小笠原に入植した彼らは島を開拓し、その場所はやがて太平洋を航海する捕鯨船などにとって重要な補給地点となった。そして当時どの国にも属していなかったそれらの島々は、世界地図に「ボニン・アイランズ」と記されるようになった(日本語の「無人島(ぶにんしま)」で、Bunin→Boninと変化したのが由来といわれる)。
ボニン・アイランズの島民は西洋と太平洋、そして日本の生活様式や言葉が組み合わさった独自の文化を築いた。しかしわずか200年弱の間に島を巡る状況は激変する。
明治9年(1876年)、島は日本の領土と認められ、欧米系島民は日本人として帰化させられた。この時、島の名前はボニン・アイランズから小笠原諸島に変わった。やがて太平洋戦争が始まると島民は疎開させられ、終戦後の1946年に欧米系島民は帰島を許可されるも故郷は米国統治の島となっていた。そして68年6月、島は日本に返還された。
島を開拓した欧米諸国出身者などにルーツを持つ島民(島では「欧米系」と呼ばれている) も現在では少なくなってしまった。昔の島の文化や歴史も徐々に薄れつつある。しかし、島民の中には自分たちの物語を通してこの島のことを語り継ごうとしている人たちもいる。大平京子さん・レーンスさん親子がそうした欧米系島民だ。戦前・戦時中の島の暮らしを知る京子さん、米国統治時代に生まれたレーンスさんの2世代にわたる島の変遷をたどる。
大平京子:戦前から激変した米軍統治下の暮らし
大平京子さんは大正10年(1921年)父島に生まれ、イーディス・ワシントンと名付けられた。ワシントンとは最初に小笠原に定住した欧米系島民の名字で、京子さん、レーンスさんはその子孫にあたる。
「私が内地にいた時に島から電報が来て、「改名スル。名前知ラセ」って書いてあったの。『いろいろな手続きをする時、日本の名前にした方がいい』ってことで言われたと思うけど…。それで『名字は簡単な方がいいだろう』と、幾つかあった候補から “大平” にして、名前は自分で決めました」
どちらの名前がしっくりするかと尋ねると、「もうずっと両方で呼ばれてるからどっちでも全然気にならないですよ」と、笑いながら答える。
京子さんが生まれた頃の小笠原は、日本の生活様式が強かったようだ。
「私たちは日本語で話し、大人は仕事が終わると浴衣姿で町を歩いていましたよ。島の青年学校では東京から特別な先生がみえて、和裁・洋裁・手芸・家事を教えてくれました。だから布団や袴(はかま)なんかの作り方も習いましたよ。ありがたかったし、島はのんびりしていて楽しかったですね、あの頃は」
しかし戦争が始まると、他の島民と一緒に内地へと疎開させられた。
「島を離れて私たちはみんな練馬にあった軍事工場に送られました。そこでは鉄砲の薬莢(やっきょう)を作っていて、ちょうど1年そこにいましたね。社宅も与えられてみんな一緒だからそんなに寂しくはなかったです。でもつらいこともやっぱりありました。 だから戦争が終わって島に帰れると分かった時はうれしかったですよ」
戦後、1946年に小笠原に戻った時、島の様子は激変していたと言う。以前あった家などの建物はほとんど壊されて何も残っていなかった。生活の仕方も米国式に変わっていた。
「確かに以前とは違う感じだったけど、軍の人たちもいろいろと手伝ってくれたから不自由と感じることはなかったです。子供たちにも教育の機会を与えてくれたし、本当によくしてくれました。でもつらかったのは、昔の友達に会えなかったこと。手紙のやり取りもできなかったからそれだけは寂しかったですね」
返還決まり「さぞや皆さんうれしかろ」
米国統治時代は欧米系島民と軍関係者以外、小笠原に近づくことは禁じられていた。また、内地から手紙を送るにしても番地などの住所が分からなかったので届けられなかったそうだ。戦前に島で一緒に暮らしていた友達と会えなかったのがとにかく寂しかった。だから小笠原が日本に返還されるとラジオで聞いた時は本当にうれしかったと京子さんは話す。
「またいつか友達に会いたいとずっと願っていました。だから小笠原が返還されるかもと聞き、その時のうれしさを便箋に箇条書きのようにして書いたの。島が返還される日まで、自分への慰めとしてずっとそれを持ち歩いていました。そしてある日、書いた言葉をそのまま歌に乗せました。それが今の “返還の歌” になったんです」
願い叶(かな)って返還くる
さぞや皆さんうれしかろタマナ茂れる浜辺に立ちて
昔懐(なつ)かし あの頃を二十余年の月日は長し
共に老いても忘れずに旅のつばめもいつかは帰る
恋し懐かし 故郷 (ふるさと)へ
「島が返還されて、昔の友達が島に帰ってきた時は本当にうれしかった。あんなにうれしいことはないですよ。本当に良かった」
島唄の名人でもある京子さんは、以後何度もこの歌を歌ってきた。
米国人の名で日本人として生まれ育ち、時代の変化に合わせて日本名に名前が変わった体験を経て、島が米国に統治された時に、自分の出自について悩むことはなかったのか。だが、本人はきっぱりと言う。
「私はこの島の人間」だと。
大平レーンス:米国と日本の間で揺れ動いた青春
かつて多くの欧米系島民が暮らしていた父島の奥村地区は、「ヤンキータウン」と呼ばれていた。大平レーンスさんは同地に建てたバーにその名を付けた。
「この店は3年かけて、全部俺一人で組み立てたんだ」と、タバコを片手に誇らしげに言う。
レーンスさんが生まれたのは米国統治時代の1950年。前述のように、当時は欧米系島民と軍関係者のみが島で暮らすことを許可されていた。
「言葉はおふくろとは日本語だったけど、学校は英語、友達とは時々日本語が混じっていた。あの頃は食料や飲み物に限りがあったから、肉を食べたい時はおやじや友達と銃を持ってイノシシを狩りに行ったよ。あとはカヌーに乗って自由に魚を釣っていた。洋服とかの買い物は Sears Roebuck(シアーズ・ローバック=米国の小売企業)のカタログを見て注文した。サンフランシスコ経由で送られるから時間もかかったよ 。でも不自由と感じることはなかった。必要な物の手配や学校、家を建てるのもアメリカ海軍は手伝ってくれた。島に住んでいた俺たちにいろいろとよくしてくれたよ」
不便でも自然の中で自由に暮らせたことが何より楽しく、居心地が良かったと言う。しかし、島で授業が受けられたのは中学1年まで。2年次にグアムの学校に転校した。
「初めて島の外に出られるってことで楽しみだったよ。でも実際には腹が立つことも多かった。他の島から来た俺たちに対して、地元のやつらはしょっちゅう文句をつけてきた」
それでも、グアムの学校に通い続けるしかなかった。高校2年の時に小笠原が日本に返還されることになり、グアムに移り住んでいた小笠原の島民はそのまま残るか、小笠原に戻るかを選択できることになった。
「卒業したら島に帰ることは決めていた。もし小笠原が日本になるんだったら、日本語を勉強しておいた方が将来役に立つ。父島には日本の高校ができて、自分は高校生活がまだ1年残っていたからちょうどいいと思ったんだ」
そして68年6月26日、返還の日に、グアム・小笠原間の最後の飛行艇に乗って小笠原に戻った。
小笠原こそ最後に帰る場所
高校を卒業してから島で就職したレーンスさんだったが、次第に変化していく島の環境に戸惑いを感じたと言う。日本の組合や組織などが新しく設立され、島全体が国立公園に指定されるとかつての自由さが失われ、さまざまな制限が設けられた。例えば銃を使った狩りの禁止、特定の森や地域への立ち入り禁止などの規制だ。自分が暮らしていた頃の世界が失われていくような感覚の中で憤りを感じるようになり、ついに米国へ渡ることを決める。
渡米の理由を聞くと、「あの時、俺は自分自身がアメリカ人であるという意識を持っていた。生まれた時の島はアメリカだったし、学校もずっと英語だった。戻ってきた時の島は、自分のいるべき場所じゃないと思った。だからアメリカに行って、軍隊に入ることを決めた。あの軍服を着ていた時は誇り高い気持ちになった。でも、それも最初の数年だけだった 」と語った。
正式に米国人となり、その後20年ほど米国で暮らした。それでも小笠原のことは常に頭の片隅にあったという。
「きっと頭のどこかで、自分が最終的に帰る場所は小笠原だと最初から分かっていた。俺はボニン・アイランダーだからな」
そして1994年に父島に戻り、 先祖から引き継いだ土地に自分の世界が詰まった居場所、「ヤンキータウン」を作り上げた。
京子さんもレーンスさんも、「私はこの島の人間」「俺はボニン・アイランダー」という確固たるアイデンティティーを持っている。
戦争、そして日本と米国に翻弄(ほんろう)された過去を持つ島で生まれ育った親子。しかし時代によって周りの世界が変化しても2人の中で揺るがなかった部分は、「小笠原」と「ボニン・アイランズ」という2つの名前を持つ島が自分たちの居場所であるということなのだろう。
今年は小笠原返還から50年。今では内地から移住してきた若い世代の島民も増えてきた。新しい未来が築かれていく実感と同時に、大平京子・レーンス親子のような島民たちの文化が少しずつ忘れられていく感覚もある。時代は移り変わるものだから、それも仕方がないかもしれない。しかし彼らの物語を知り、その話を語り継ぐ人たちがいる限り、ボニン・アイランズの過去と記憶は生き続けるだろう。
バナー写真:父島のバー「Yankee Town」でインタビューに答える大平レーンスさん
(2018年6月 記/写真:伊関毅)