どうして「心の声」が聴こえなくなってしまったのか
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「心」のフタは、なぜ閉められたのか?
「何をやっても、何を見聞きしても深く感動できない」「自分が物事をやっている実感が得られない」といった声を耳にすることが多い。あらゆることを他人事のようにしか感じられないのは、何とも味気ないものだ。私たちが、深い感情や、自分が主体である感覚を取り戻すためには、自分の「心」の声に耳を傾けるところから始めなければならない。
しかし、そんな風にアドバイスをされても、「一体どうしたらよいか分からない」「どれが心の声なのか分からない」と困惑してしまう人も少なくない。長年にわたって「頭」と「心」の間のフタ(前回のコラムを参照)ががっちりと閉まった状態にあった人は、久しく「心」の声を聴いていなかったので、途方に暮れてしまうのである。
そもそも、なぜ「心」のフタは閉められてしまったのだろうか。
「心」は、感情や感覚の場である。この「心」が感じ反応したものが、そのままに表出されることに、かつて何らかの不都合があったのだと考えられる。そのために、「頭」が「心」のフタを閉めてしまったのだ。これが、フタが閉まったいきさつの基本構造である。
では、その不都合とは何だったのだろうか。
感情には2種類ある
私たちが感情と呼んでいるものは、必ずしもその全てが「心」から生じているわけではないことに注意する必要がある。しかもややこしいことに、「感情的」と形容されるようなものは、ほとんどが「頭」に由来するものなのだ。
「頭」はコンピューター的で、事物をコントロールしようとしたり、損得計算や比較、シミュレーションを行ったりする場である。よって、この機能がもとになって生じるような感情は、すべて「頭」由来のものである。
未来や過去をシミュレートして生ずる「不安」「後悔」はその代表的なものであるし、物事が思い通りになって「うれしい」とか、思い通りにいかないから「いら立つ」といった欲望に基づく感情も、「頭」のコントロール志向によって生じるものである。さらに、他人と比べることによって生ずる「劣等感」「優越感」「嫉妬」「蔑(さげす)み」なども、「頭」由来の感情なのだ。
ここでは、区別のために「頭」から生み出される感情を「浅い感情」と呼ぶことにしよう。これは、「心」由来の「深い感情」とは、全く質の異なったものである。
「心」由来の感情は、単純化すれば喜怒哀楽の4つである。そして、「心」は愛の場所なので、これらの感情はいずれも、愛のバリエーションである。
相手をコントロールしようとする欲望やエゴの押し付けといった邪悪なものに遭遇したり、それが自身に向けられたりしたときに「心」が発動する迎撃ミサイルのごときもの。それが、義憤としての「怒り」である。また、悲惨なものや気の毒な状態のものに対しては、「心」は慈愛の「哀しみ」を生じる。生気にあふれたものに「心」が共鳴し躍動すれば、「喜び」や「楽しさ」が生ずるのだ。これらが「深い感情」である。
感情の井戸
しかし、「心」のフタが閉じられた状態だと、「心」で生じた感情は出口を失い、ある順番で「心」の中に閉じ込められてしまうことになる。
その様子を表したのが、右の図である。
ちょうど「心」の中に井戸があって、フタに近い方から「怒」「哀」「喜」「楽」の順番で感情がたまっている。この順番は、私が臨床経験を積み重ねる中で明らかになってきた重要な所見である。
注目すべきなのは、フタに近い方に、一般的にはネガティブな感情と考えられている「怒」「哀」があり、奥深い場所にポジティブな感情と呼ばれる「喜」「楽」があることだ。
上にある「怒」「哀」がそこに居座ったままでは、下にある「喜」「楽」は外に出てくることができない。つまり、自己啓発本などで提唱されているような「ネガティブな感情に振り回されず、ポジティブな感情を大切にしましょう」といったことは、実行不可能な理想論に過ぎないことがわかるだろう。近年、このような誤った考え方があちこちで唱えられているが、その原因は、頭が生み出す「浅い怒り」と心に由来する「深い怒り」とが、きちんと区別されていないところにあるのではないかと考えられる。
そもそも、「怒り」や「哀しみ」も愛の表現形なのであって、これを単純にネガティブと見なしてしまっているところが、大きな誤りなのである。
「深い」感情の姿
心に由来する「深い感情」が愛の表現形であることが端的に示されているのが仏像やヒンズー教の彫像だ。
欲望やエゴの押し付けに対する仏の怒りは、下の写真のような明王の形で表されている。
か弱く哀れなものに対する仏の慈悲の心は、菩薩(ぼさつ)の姿で表現される。
「喜」や「楽」を表したものは、音楽に興じて踊るヒンズー教のシヴァ神の像などに象徴的に表されている。
このように古来より仏神の形として表されてきたものを見ても、愛に由来する「怒」「哀」「喜」「楽」の感情は、どれも差別なく大切に扱われるべきものであることがわかるだろう。
しかし、「浅い感情」と「深い感情」の区別ができていなければ、愛の表現形である「深い怒り」や「哀しみ」までをもネガティブであると誤解し、抑えるべきものと思ってしまうことになってしまう。
人が「心」のフタを閉めてしまう原因は、この誤解に由来するものがほとんどなのだ。
「怒り」の意義
私の臨床経験では、「心」のフタを閉ざしたクライアント(患者)は、親の「浅い怒り」がしばしばまき散らされるような環境に育ってきた場合が多い。
クライアントにとって、「怒り」は忌むべきものであったがために、自分自身の「怒り」も良くないものだと強く思うようになってしまっている。その結果、「浅い怒り」を抑えるにとどまらず、「深い怒り」までを自分自身に禁じているのだ。それが、感情の井戸のフタが堅く閉められた原因だと考えられるのだ。
先ほどの図を見ても明らかなように、これによって抑えられるのは「怒り」だけでは済まないことになる。人間にとって最も大切な「心」由来の感情が、全て一緒くたに抑え込まれてしまうのだ。
「心」から湧き出てくる「深い感情」が動かなければ、何をやっても、何を見聞きしても、そこに感動が生じることもなくなり、生きる喜びが得られなくなってしまう。「何をしても自分がやっている実感がない」「全てが薄いベールの向こうで行われているようにしか感じられない」「外の世界がスライドショーでも見ているようにしか感じられない」といった離人症的状態は、このようなメカニズムで起こってくる。
そこで、この「心」のフタを開ける作業に取り組む必要があるのだが、ここで重要な鍵を握っているのは、先ほど述べたように、井戸の一番上に陣取っている「怒り」についての誤解を解消することである。つまり、かつて自分を苦しめたのは親が発した「浅い怒り」であって、愛の一種である「深い怒り」は、むしろ素晴らしいものであるということを知っておかなければならない。
ただし、ここで誤解してはならないのは、フタを開けて「深い怒り」を出すということが、必ずしもそれを周囲や相手にぶちまけることを意味しているのではないということである。あくまで、「心」から湧き上がってくる感情を「頭」があるがままに受け止めることが大切なのであって、それを言動として表出するか否かは、社会性をつかさどる「頭」が適切に判断すべき問題なのだ。
しかし、自分の外に表出されない深い感情は、行き場がなくフラストレーションがたまってしまうかもしれない。そんな場合には、その感情を文字にしてみると良いだろう。自分の内に留めておくより、文字化して自分の外に出すことによって、かなり気持ちが軽くなるはずである。もちろん、それは誰にも見せないものでなければならない。私はそれを、「心の吐き出しノート」と呼んで推奨している。
人類が長い歴史の中で、さまざまな差別や虐待、理不尽な因習や社会制度を改革し、新しく素晴らしいものを生み出してきた源泉には、必ずや、邪悪なものへの「深い怒り」があった。しかし、私たちの周りには「怒らないことが良いことだ」といった浅薄な考えが、いつの間にか、はびこってしまっている。
「深い怒り」が抑えこまれると、人は精神的に去勢されたような状態に陥り、生きる喜びから遠ざけられてしまう。それだけでなく、理不尽なことや不正をはねのける力を失い、邪悪なものが横行する世の中に加担することにもなってしまうのだ。
全ての人が、今こそ「深い怒り」の意義を見直さなければならないのだ。
バナーイラスト=オカダミカ