パラオという特別な友人に日本人はどう向き合うべきか
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花札に興じる「ふゆこ」さん
パラオのコロール市内にあるコミュニティーセンターで、3人のお年寄りの女性が花札で遊んでいた。日本の委任統治時代から伝わる花札は、パラオのお年寄りに人気のゲームだ。「スリーハンドレッド、テッポウ!」。花札の鉄砲という役(※1)を300点で数えていた。横に立って見ていると「日本人?座りなさい」と日本語で言われた。
その中の一人の女性が「私は日本人だったの」と口を開いた。名前を聞くと「くろみやふゆこ。本当は“ふよこ”だけど、パラオの人はふゆこと発音するのよ」。漢字でどう書くのかを尋ねると「漢字は分からないの。子供の時にパラオに残ったから勉強していないの」と答えて少し悲しそうな顔になった。
戦前、ふゆこさんは建築職人だった父親に連れられ、一家でパラオに暮らしていた。男5人と女5人のきょうだいの末っ子で、太平洋戦争が終わった1945年には、小学校に通い始めたばかりの歳だった。
ジャングルの洞窟に一家で隠れて生き延びた。お腹をすかす日々のわずかな食べ物を家族に優先して与え続けた父親は、栄養失調で亡くなってしまった。ふゆこさんは、地元のパラオ人の老夫婦に預けられた。
戦争が終わって日本人がパラオを離れる時、日本での生活の苦しさも予想される中、老夫婦の強い希望もあって、母親はふゆこさんをパラオに残すことに決め、「必ず迎えに来るね」と言い残して日本行きの船に乗った。
「てるこ、みやこ、えいこ、ひさの、よしはる…」。きょうだいの名前は覚えていたが、ほかの日本語はどんどん忘れていった。ふゆこさんは、パラオで成長し、パラオ人の事務職の男性と結婚したが、男性はすぐに亡くなり、ペリリュー島の男性と再婚した。「ひろいち」という名字の男性だった。パラオでは、日本人の名前を名字にしている人が少なくない。
その男性にも先立たれたふゆこさんは、いまはコロールで娘と暮らしている。月曜日から金曜日まで、コミュニティセンターで午前中はほかの高齢者たちと花札を楽しみ、お昼のお弁当を食べて家に帰るという日々だ。
諦めた日本での暮らし
1960年に、長男を連れて日本を訪れた。日本語は「ありがとう」と「こんにちは」しか覚えていなかった。
「お母さんは、わたしをぎゅうっと抱きしめて、恨んでない?ごめんね、って謝ってくれたの。私も泣いた。お母さんも泣いた。お母さんも悲しかったんだねって思ったの。私も苦労した。お母さんも同じ。パラオのおじいさん、おばあさんも同じ。だから誰も恨んでないのよ」
花札をめくりながら、ふゆこさんは、かわいらしい日本語で語った。
日本に戻って暮らすという夢は諦めた。「私はほとんどパラオ人になっていたの。日本に行った時、私はもう日本に合わない、暮らせないって思ったの」
それでも、ふゆこさんはパラオの日本料理店で働くようになり、日本語の上手な店主のパラオ人と日本語で会話しながら、少しずつ日本語を思い出していった。いつも家ではテレビで日本のドラマを見ている。分かる言葉と分からない言葉があるが、「いつもテレビで日本の映画を見るたびに、日本のごはん食べたいなあって思った。特にね、漬物が食べたいのよ」と笑った。
「ごめんなさい、バス乗らないといけないから。今度日本にいったとき、あなたに案内してもらえるかしら。桜が見たいの、まだ見たことがないから。何度か日本に行ったけれど見たことがないから」。そう言い残して、ふゆこさんはコミュニティセンターの送迎バスに乗り込んだ。
訪問客が必ず通る「日本・パラオ友好の橋」
彼女との短い対話で強く実感させられたのは、日本という国がかつてパラオに深く関わっていた、という当たり前の事実である。日本の戦前の対外進出について、中国、満州、朝鮮半島、台湾が強調されることが多く、「南洋」にも日本が足跡を残していたことは、しばしば忘れられがちだ。
しかし、パラオには、本連載7回目で紹介したように、戦争に巻き込まれて日本に戻れず、日本を想いながら、懸命に生きてきた人たちがいた。彼らは、満州で数多く生み出された残留孤児のパラオ版である。
日本が統治・占領した土地には、日本に対して好意的な感情を持っているケースと、そうではないケースがある。好意的なところとしては台湾が思い浮かぶが、台湾では戦後、抗日戦争を経験したこともあって世代的には年齢が高い世代と、日本への旅行や日本文化を愛好する若い世代の二極構造の親日になっている。パラオの場合は、日本の委任統治を経験した世代(本連載6回目参照)を筆頭に、若い世代まで満遍なく親日感情が共有されている。
こうした好感情を土台に、戦後の日本の貢献もパラオの人々には確実に伝わっている。
パラオの空港はパラオ最大のバベルダオブ島にあり、中心都市のあるコロール島との間には、海を越える400メートルの長い橋が架かっている。日本の無償援助で2002年に建設された「日本・パラオ友好の橋」と呼ばれるこの橋は、パラオ訪問客は必ず通ることになる。
私は取材もあって何回もこの橋を通ったが、通るたびにタクシーの運転手から「日本が橋を架けてくれた。以前は韓国の企業が建設した橋だったが、手抜き工事で崩落した。いい橋を造ってくれて、日本に感謝したい」と言葉をかけられた。手抜き工事かどうかは別に、韓国企業が架けた橋の崩落事故の後に日本の援助で建設されたのは事実だ。
ほかにも、2015年の天皇皇后両陛下の訪問後、その4月9日がパラオで祝日となっていることにも驚かされた。前の歴史を生かしながら、戦後の関係を積み上げていくことの重要さを改めて感じさせられた。
(※1) ^ 花札で「桜に幕」、「芒(すすき)に月」、「菊に盃」の3枚がそろった役。
太平洋諸国は日本の大事な支持母体
いま、パラオと日本の距離は、海の安全の重要性への注目もあって、戦後最高レベルに近づいていると言って間違いない。パラオだけではなく、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島を含めたミクロネシア3国の排他的経済水域(EEZ)の広大さを考えれば、彼らとの友好関係の維持は日本のエネルギーや海洋の安全保証に大きく寄与することは疑いようがない。
パラオを含めた太平洋諸国事情に詳しい塩沢英之・笹川平和財団主任研究員は「パラオを含めた南太平洋地域全体で、日本が海洋管理の問題で何かをしようとすると、かつての日本統治の関係で、米豪からは消極的な反応が出てくることが多く、『戦勝国』の壁のようなものがあって、日本は簡単に近づけませんでした。しかし、最近は中国の台頭もあって風向きが変わり、自由主義諸国全体の問題として取り組めるようになり、安全保障面で日本に補完的な協力が期待されるようになりました」と指摘する。
本連載2回目で取り上げた日本財団によるパラオへの巡視艇供与などの取り組みも、パラオにとっては海洋警察力の強化という目的だが、諸外国にとっては太平洋全体の安全確保戦略の枠組みで進んでいるのである。
パラオは、日本外交にとって長く忘れ去られた存在だった。日本がパラオへ目を向けるようになったのはこの10年ほどのことだ。
もともと太平洋諸国の日本大使は複数の国を兼任する例が多く、この地域に2、3人しかいなかった時期もあったが、現在はパラオを含めて8人に達している。パラオの在留邦人はいま370人。大使館を置くことの費用対効果という問題もあるが、山田俊之駐パラオ大使は、パラオや太平洋諸国の外交的重要性について、こう説明する。
「私はかってアジア太平洋電気通信共同体の事務局長に2011年の選挙の時に立候補し、当選しました。韓国人の対抗馬がいて、投票の結果28対8で勝ちましたが、太平洋諸国12カ国のうち11カ国が私に投票してくれました。国際組織で一票は一票。北朝鮮の非難決議でも太平洋の国々は支持してくれます。パラオが日本の提案に同意しなかった例はほとんどないはずです。南西アジアと並び、太平洋諸国は強力な日本の支持母体になっています」
いまパラオは本連載5回目でも取り上げたように、環境保護と経済成長の両立に懸命に取り組んでいる。欧米などの非政府組織(NGO)もパラオには入っているが、最終的な政策決定には、かなりパラオ固有の価値観が反映されている。前出の塩沢氏は「パラオ人は外の知恵を取り入れながら、自らの価値を守ることに長けている」と話す。そんなパラオの姿には学ぶべき先進性を感じさせる。
パラオは日本の過去を映す鏡
日本からパラオは遠い。そして、パラオは小さい。人口2万人、国内総生産(GDP)は3億米ドルに過ぎない国だ。だが、パラオの価値は国の大小では測りきれないことこそ、この連載で伝えようとしたことだった。
日本にとってパラオは単なる「他人」ではなく、パラオの中に、私たちの先達が残していった日本の伝統や文化がいまも息づいており、日本の過去を現在の私たちが見つめることのできる鏡になり得る国である。
日本の安全保障やエネルギー政策における重要性を持ち、太平洋の要になる友好国でもある。生々しい「日本の戦争」の跡も見ることができる。もちろん世界遺産レベルの美しい大自然はパラオの最大の魅力である。
そんな特別な友人であるパラオを日本人が知らない手はない。
(写真はいずれも野嶋剛氏撮影)
バナー写真:コロールのコミュニティーセンターで花札遊びをする、くろみやふゆこさん(右)