パラオ「天皇の島」ペリリューの戦跡から考える「日本の戦争」の姿
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1万人を超える犠牲者が出た戦場
あの時代、あの戦争。日本人はこんな場所で戦っていたのか。改めて、真っ青に透き通った海を見つめながら考えてしまった。
パラオの中心都市コロールから快速ボートでおよそ1時間半。世界遺産の美しいサンゴ礁の海を疾走してたどり着いたペリリュー島は、かつて日本軍が太平洋で米軍を最も苦しめた戦場の一つとは思えない、優しいたたずまいの小さな島だった。
ペリリュー島の戦いは、人員、装備ともに劣勢にあった日本軍による必死の抵抗だった。当時、島を守備したのは1万人。満州に駐留していた水戸第2連隊が主力だった。米軍の主力は海兵隊第1師団。日米両軍の精鋭同士がぶつかり、両軍合わせて万を超える死者を出す凄惨(せいさん)な戦いとなった。
両陛下の慰霊きっかけにツアー客が急増
そのペリリュー島を訪れる日本人がこのところ、急激に増えている。明確な統計はないが、ほぼ毎日のようにコロールからのツアーが出ている。従来は年配の人々による、戦いで亡くなった親族や知人に対する慰霊の旅だったが、最近は歴史に興味を覚えた若い人々の戦跡巡りも少なくない。
きっかけになったのは2015年の、天皇皇后両陛下の慰霊の旅だ。過去に天皇が訪れた場所で、おそらく最も行程の厳しい土地の一つだったのではないだろうか。日本からパラオまで直行便でも6時間。さらにコロールからペリリュー島までヘリで飛んだ。ペリリュー島ではミニバンに乗って慰霊碑に足を運んだ。
そこで天皇皇后両陛下が海に向かって礼する姿は日本人に強いインパクトを与え、ペリリュー島訪問のブームに結びついた。パラオで旅行会社「ロックアイランドツアー」で長年働いてきた菊池正雄さん(70)=現ベラウツアーグループ相談役=は振り返る。
「旅行会社を立ち上げて30年になりますが、天皇皇后両陛下のご訪問以来、テレビで映像を見て心を動かされたという日本人のペリリュー旅行者はずっと増え続けています。歴史を通して、日本とパラオが結びつく時代になりました。日本の皆さんがパラオに来てくれたなら、観光やダイビングに加えてパラオ人の心やパラオの歴史に触れてほしいと考えているわれわれにとっても大変うれしいことです」
いまだ多くの戦死者が眠る「千人洞窟」
ロックアイランドツアーは戦跡を詳しく記した資料を用意し、ガイドは詳しい戦闘の経緯をお客さんに伝える知識の習得を心掛けている。現地の慰霊碑に供えられるよう、線香も用意している。
私も同社のペリリュー島訪問ツアーに参加して、早朝、コロールの港を出発した。シーズンから外れた平日ということもあって、参加者は私を含めて4人。波しぶきに濡れながら、ペリリュー島の港に到着する。最初に向かったのは、かつての野戦病院といわれる「千人洞窟」だった。
ペリリュー島は火山性の地盤で、島全体の地下には迷路のような洞窟が広がる。日本軍がとった作戦は、これらの洞窟を要塞化し、米軍の爆撃に耐えながらゲリラ戦を仕掛けるというもの。その方針を打ち出したのが、ペリリュー島守備部隊の指揮官であった中川州男(くにお)大佐だ。
熊本出身の中川大佐は「最後の一兵になるまで戦い抜く」という信念の持ち主で、それまでの日本軍のバンザイ突撃に象徴される生命軽視の作戦はとらなかった。
「千人洞窟」は1000人も収容できるほどの大きな洞窟ということから名前が付けられたが、奥まで進んでいくと、ビール瓶があちこちに転がっていることに気づいた。ビールを飲料水代わりに飲み、空き瓶を火炎瓶として活用したらしい。薬きょうや包帯らしきものも落ちている。まさに手付かずの戦跡だ。洞窟の入り口は米軍の火炎放射で黒焦げになっていた。
洞窟に立てこもった日本兵が一番恐れたのは火炎放射器ではなく、ブルドーザーだったという。洞窟の出口を土砂にふさがれると、生き埋めになってしまう。ペリリュー島の戦闘では、合計1万2000人の生命が失われ、うち1万人は日本兵だった。いまだに日本兵およそ2500人の遺体が見つかっておらず、その多くは洞窟の中で眠っていると考えられている。
ビーチそばの慰霊碑に手を合わせる
次に向かったのは滑走路跡だ。ペリリュー島には東洋最大とも言われた十字型の2本の滑走路があり、米軍がフィリピン攻略を前にして、パラオ奪取を目指した最大の理由でもあった。グアムなどを落とした米軍は、フィリピンに迫った。フィリピン・ルートの途上の要衝がペリリュー島だったのである。
滑走路は今も時折小型セスナが離着陸するというが、草ぼうぼうで路面も荒れており、使用に耐える飛行場には見えない。天皇皇后ご訪問の時は、臨時のヘリポートを作ってコロールからヘリで来た両陛下を迎えた。
空港近くの西海岸には「オレンジビーチ」と呼ばれる美しい砂浜がある。米軍が上陸を試みた海岸だ。米軍は猛烈な艦砲射撃を行ってから、1944年9月15日、上陸を試みた。
米軍は艦砲射撃でほぼ日本軍を殲滅(せんめつ)していると思い込んでいた。だが、日本軍は洞窟に潜んで被害を抑え、上陸地点を予想してトーチカを作って備えていた。米海兵隊第1海兵師団はこの上陸作戦などで、1700人の死者を含め死傷者8000人超の大打撃を被り、戦闘継続能力を失って本国に増援を仰ぐことになる。
真っ白な砂浜と紺碧(こんぺき)の海を見ながら、血で染まった海岸を想像してみた。
オレンジビーチのそばに、1985年に建立された西太平洋戦死者の慰霊碑がある。ペリリュー島を含む西太平洋全体の戦死者を慰霊するものだ。著名な建築家・菊竹清訓(1928-2011)の設計である。慰霊碑にはシャコガイが埋め込まれ、水がたまるようになっている。洞窟の兵士が苦しんだのが水の確保だったからだ。
慰霊碑の辺りは風が一年中強く吹く。穏やかな日だったが、波しぶきが飛んでいた。天皇皇后が祈った場所で、私も両手を胸の前で合わせた。
ほかにも、旧海軍弾薬庫を改築したペリリュー島戦争博物館や、旧日本海軍司令部の建物跡、ジャングルに墜落したまま放置された日本軍戦闘機ゼロ戦、戦闘能力を空襲で奪われたと思われる日本軍軽戦車などが、島のあちこちに散在していた。全てを回りきるには5、6時間はかかるだろう。
今も残る不発弾
ツアーの一行は、最後に「大山」と呼ばれた山に向かった。そこが日本軍玉砕の地である。山に登っていくと、白と黒のくいが打ち込んである。ペリリュー島には多くの不発弾が今も残っている。白いくいに挟まれた所だけが安全に通れる道だ。不発弾の撤去作業はオーストラリアと日本のボランティアの手で進んでいるが、戦後70年以上を経ても終わっていない。
「ペリリューの山は近寄れない所ばかりです。危ないから、絶対に列から外れないでください」。 ガイドの声に、一行は少し緊張感を高めた。
大山が米軍に囲まれ、残兵もわずかとなったところで中川大佐は自決した。司令部に対し、最後の電報を打った。その内容は「サクラサクラ」。これから散ること=自決を意味する内容だった。中川大佐は切腹したと言われていたが、米軍の遺体検証によれば、ピストルによる自決だったようだ。米軍がペリリュー島のどこかに埋葬したが、遺骨の行方は分からないままだ。
中川大佐らの慰霊碑の前には、飯ごうや鉄兜(かぶと)が置かれていた。
「本物」感じさせる戦跡の数々
中川大佐率いる守備隊は、飛行場を米軍に奪取され、島の9割を占領されながらも、日中は洞窟に潜み、夜間に行うゲリラ戦で粘り強く戦って持久戦に引き込んだ。太平洋戦線での苦戦が続く中、ペリリュー島の奮闘は広い関心を集め、天皇は11回もの御嘉賞を下賜し、日本から3000キロ離れたペリリュー島はいつしか「天皇の島」と呼ばれるようになった。
戦闘終結後も日本軍の一部は洞窟に隠れ続けた。その数は34人。米軍の施設から缶詰などを盗みながら、終戦後もしばらく抗戦を続けた。戦争は終わったと米軍が説得しても、なかなか耳を傾けようとしなかった。
ペリリュー島での戦闘は、日本軍の善戦=米軍の苦戦というストーリーでしばしば語られるが、大きな構図では無謀だったあの戦争の中の小さな善戦を、過度に美談に仕立てようとは思わない。しかし、われわれの先祖が祖国や家族を守ろうと命を賭けて困難な環境で戦い抜いた事実に対しては、深く頭を垂れたいとペリリュー島の戦跡を巡りながら痛感した。
パラオで戦場となったペリリュー島とその隣のアンガウル島には、今なお多くの戦跡が手付かずのままで残されている。パラオ政府はエコツーリズムを重視し、積極的に戦跡ツアーをアピールしてはいない。それがかえって戦跡を昔のままの姿にとどめており、「本物感」を見る者に与える一因になっている。
博物館の展示物にはない生々しい残骸が戦争のイメージを喚起させる。パラオを訪れたならば、日本人としてぜひとも足を運ぶべき場所。それがペリリュー島の戦跡である。
(文中の写真はいずれも野嶋剛氏撮影)
バナー写真:「西太平洋戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下=2015年4月9日、パラオ・ペリリュー島(時事)