
日本がパラオに残したレガシーは?:ウエキ元駐日大使に聞く
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パラオは「日本」だった。正確にいえば、約30年間にわたって委任統治をしていたのだが、日本の文化や習慣が移植された、という意味においては、台湾や朝鮮半島、満州などよりも、パラオにおける日本の「濃度」は群を抜いていた。南洋の島々を統括する南洋庁が置かれ、日本人の南洋進出への夢をパラオは丸ごと引き受ける場所となり、現地人口の数倍の日本人があふれた。
その中で、戦前は日本人として育てられ、戦後はパラオ人として生きてきた人々がいる。彼らは戦後から現在に至るまで、日本・パラオ関係の支柱となってきた。その一人が、パラオの駐日本大使を務めたミノル・ウエキ(84)さんだ。
2013年に駐日大使を退任したウエキさんは現在、パラオのコロールで旅行会社を経営し、ダイビングや太平洋戦争の激戦の跡を訪ねる戦史巡りに訪れる日本人観光客を受け入れている。日本とパラオとの間で揺れ動く一生を送った人から見た「日本とパラオ」を語ってもらった。
日本の教育が有能な人材を育てた
野嶋 子供の頃、戦後すぐに日本で暮らした時期があったそうですね。
ウエキ 父親は愛知県の名古屋出身でした。養子で長崎に出され、その家の会社が上海に店を持っていたので、中国の学校を出てからフィリピンに渡り、次はパラオに移りました。パラオ人の母と結婚して、貿易や製材などいろいろな仕事をしながら、早くに亡くなりました。私はパラオ人の母に育てられましたが、長男だったので日本国籍があり、日本人の学校に通いました。
パラオは母系社会なので子供は母親に属しますが、日本国籍のある私は終戦時、他の日本人と一緒に日本に帰りました。日本に行くと食べ物がなくて大変でした。父の実家の名古屋は戦争でひどくやられて実家も壊れていたので、佐賀の伊万里で2年ほど農業をしながら暮らして、パラオに戻りました。
野嶋 パラオで受けた日本の委任統治時代の教育はいかがでしたか。
ウエキ 日本はパラオ人を積極的に日本化しようとはしませんでしたね。パラオ人の宗教にも全然タッチしていません。一方、委任統治の責任を果たそうと、教育や医療、経済などの社会基盤の整備に努めました。
パラオ人と日本人の教育は区別されていましたが、学齢期に達したパラオ人は「公学校」と呼ばれる学校に通い、3年から5年の日本語の義務教育を受けました。まずは日本の言葉を覚えて、ある程度、日本の歴史も学びました。5年間の教育で日本人と一緒に仕事ができるぐらいの日本語が身に付きます。成績のいい子はコロールにいる日本人の家庭に下宿しながら学校に通い、日本人の生活習慣やより高いレベルの日本語を身に付けました。
学校を出た後は、日本人の会社や公的機関で、事務の手伝いや店員、配達などの仕事にパラオ人は就きました。また、義務教育を終えた後、建築を学ぶ学校があり、パラオや南洋の各地から選ばれた若者が学んでいました。戦争が終わって一番助かったのは、そこで学んだ若者がパラオ人のための木造家屋を造れたことです。日本の後にやってきたアメリカ人が鉄筋の家にしなさいと言った時期もありましたが、パラオ人は木造の方を好みました。
また、日本時代の学校で優秀だったパラオ人が、戦後、国家の再建に大きく貢献しました。独立に向けて活躍した政治家やパラオ政府で重要な仕事をした人たちは、日本教育で育てられた人々です。
アプローチ異なる日米
野嶋 パラオは戦前の日本と戦後の米国に委任統治をそれぞれ受けました。ウエキさんの世代はその両方を知っています。日米を比較してどう思いますか。
ウエキ アメリカと日本は統治のやり方が大きく違いましたね。日本人は自分たちで経済の仕組みを作り上げて、そこにパラオ人を入れていきました。パラオ人に自分の力で真面目に働くことの大切さを教えてくれました。お金は人からタダでもらうのではなく、自分で一生懸命仕事して、家族を養っていくという人生観です。
一方、アメリカ人は最初の時期は「お金はあげるので、後はあなたたちで勝手にやりなさい」という感じでした。米国は毎年一定額の補助金をくれるだけでパラオに深く関わろうとせず、パラオ人任せ、悪く言えば、放置していました。これは「動物園政策(zoo theory)」と呼ばれるものでした。
しかし、ケネディ大統領の時代になってソロモンという経済学者の調査団が南洋の島々を訪れて「ソロモン・リポート」という調査報告を発表して、「こんなやり方でアメリカは恥ずかしくないのか」と批判しました。そこからアメリカも変わって、社会や経済の基盤整備にも真剣になり、英語の教師も派遣しました。パラオ人が英語を話せるようになったのは、それからです。能力があれば米本土やハワイ、グアムの大学に通えるようになりました。