パラオの文化:「親日」を支える豊かな日本語
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ビールで「ツカレナオス」?
パラオの中心地・コロールのレストランで、パラオの知人と食事をしていた時のこと。ビールを注文すると、知人は笑いながら「ツカレナオス」と言ってビールが注がれたグラスを差し出した。
どういう意味だろうと尋ねてみると「乾杯のことです」と知人はいう。
「ツカレ」は「疲れ」。「ナオス」は「治す」。
夜にアルコールの杯を傾けることで、一日の疲れを癒すという意味で使われている「パラオ風日本語」だという。
この話を聞いて、台湾の「アタマコンクリート」を思い出した。「頭が(コンクリートのように)固い人」を形容する台湾語だ。台湾でも、日本統治時代に伝わった日本語が生きており、現代日本語からすると、少しずれた違和感のある古風でユニークな響きを帯びている。
このようにパラオには「日本」が今も色濃く残っている。その濃度は、おそらくは、台湾や朝鮮半島など、日本が統治したかつての「日本領土」であった国々をしのぐものだ。
パラオは日本の領土ではなかった。国際連盟から委任統治されていたに過ぎない。その期間も1920年から45年までの25年間ほどで、台湾の50年、朝鮮半島の35年からすると短い。
しかし、「植民地」という言葉の本当の語源である「植民」という意味からすれば、パラオは最も日本にとって植民地らしい場所だった。なにしろ、当時のパラオ人口5000人に対して、日本からはフロンティアの「南洋」を目指して軍民合わせて2万5000人が押し寄せたのである。
そのパラオに残していった日本の存在感の大きさは、現在も最高裁判所として利用されている旧南洋庁ビルなど日本時代の建築物に見ることができる。しかし、それ以上に生活の中で実感させるのが日々使われている日本語なのである。
文化と言語において接触した日本とパラオ。日本語からの借用語がパラオに大量に流入し、戦後70年以上たった今でも活発に使われている。
「キュウリ」「マナイタ」もパラオ語
nippon.comでインタビューしたレメンゲサウ大統領も、子供の頃から日本語由来の多くの言葉に親しんできたと語っているが、実際のところ、今のパラオの若者たちは、どの言葉が日本語由来であるのかも分からないで生活している。日本に留学したり、日本人と知り合ったり、パラオで日本人と仕事をしたりして、初めて、パラオ語で生きている日本語の豊富さに気付くという人々も多い。
そんな体験を語ってくれたのが、パラオの日本大使館で働いているアンナ・ヒデオさんだ。アンナさんは旧首都コロールの北側にあるエサル州のシミズ村の出身だ。
アンナは名前で、ヒデオは姓。パラオには、姓に日本人の名前を使うケースがしばしば見られる。もともと姓という概念があまり強くなかったパラオ社会では、日本の委任統治時代の記憶に従って日本風の姓を付けていたようだ。シミズ村という名前も、日本の委任統治時代に名付けられた村名を戦後もそのまま使っている。
「ヤサイ。キュウリ。マナイタ。家庭で使っていた日本語は全部、純粋なパラオ語だと思っていました。家では『アジ、ダイジョウブ?(味は大丈夫?)』って普通にお母さんと会話していましたね。でも、小さいころ、村に日本人がやってきて、初めて日本語だと知ったのです」
パラオ語はオーストロネシア語族に属する言語だ。台湾の先住民から東南アジアの島嶼(とうしょ)部、太平洋の島々まで広がっているグループで、日本語では南島語族とも呼ぶ場合もある。
そのパラオ語に生きる日本語は800語だとも1000語ともされ、日常会話で使うボキャブラリーの2割と言われる。パラオ語への日本語の浸透は、日本の委任統治の時代に起きた。日本はパラオに教育制度を普及させ、「公学校」と呼ばれる学校などで、移民日本人の子供と一緒にパラオ人の子供も3年間から最長7年間、日本語による教育を受けた。
日本語に関心を持ったアンナさんは1998年から日本に2年間留学し、東京で暮らした。その後、2007年から8年間にわたって再び日本に赴き、パラオの駐日本大使館で働いた。15年にパラオに帰国し、現在はコロールの日本大使館で広報文化担当として働いている。
自身の経験をこんな風に語った。
「日本に留学していた時は、テレビ見ながら、あれは日本語だったのって、耳にするたびにびっくりして、自分でリストを作り始めました。私のリストは600語ぐらいになります。でも作っているうちに自分でも、どれが日本語なのか分からなくてこんがらがるようになってしまいました(笑)。私もパラオで日本語の入ったパラオ語を使っているので、日本語は学びやすいかと思い込んでいたのですが、文法も違っていて漢字もあるので、難しさはあまり変わらないかもしれません」
年越しそばならぬ年明けうどん
パラオの借用日本語には、日本語そのままのものもあれば、微妙に変化した発音も少なくない。例えば、風呂敷は「ブロシキ」、扇風機は「センブウウキ」と、「プ」を濁らせて「ブ」と発音している。
パラオでは、全てパラオ語単独のボキャブラリーで長い会話や演説を行うのは不可能に近い。行政用語などは戦後、米国の委任統治の開始とともに始まった英語の流入の影響を受けており、政治家の演説は、日本語ボキャブラリーをまぜたパラオ語と英語の組み合わせになる。借用日本語が英語に切り替わるケースも多い。例えば「コオリ(氷)」より「ice」がよく使われるようになっているという。パラオ語にはほかにも過去に統治者としてパラオにいたスペインやドイツの言語の残した語彙(ごい)も少なくない。パラオ語そのものが、パラオの歴史をとどめる資料庫であり、歴史を映し出す鏡なのである。
パラオでは日本語だけでなく、日本が残した伝統遊戯が、日本語と一緒に継承されている。アンナさんはこう振り返る。
「子供のころから遊んでいた『ケンケン』は日本のけんけんだと、日本に行って初めて知りました。花札やお手玉も村ではみんな遊んでいましたけど、日本で遊んでいる人はあまり見かけませんでしたね(笑)」
食生活でも日本の残したものは少なくない。
パラオでは、お正月にうどんを食べる習慣がある。これは年越し蕎麦(そば)を食べる習慣が、蕎麦栽培のないパラオであったため、うどんで代用した習慣が残っていったとされる。
アンナさんによれば、シミズ村では出汁(だし)は鶏肉がないので、野生の鳩でスープを作って、うどんを入れていた。小麦粉がない場合は、現地で採れるタピオカのデンプンを使うこともあった。味付けは醤油。「お味噌はないから使わなかった」とアンナさんは振り返る。ちなみに「ミソシル」という料理はパラオにあり、味噌味ではないが、野菜がたくさん入ったスープのことを指す。
コロールの中心部で、「クマンガイベーカリー」というパン屋があった。クマンガイはもともと「熊谷」が由来だと思われるが、パラオ語の発音でnが混じるという。日に2回の発売時間と同時に売り切れてしまうというほどの人気商品は「アブラパン」だ。これは「アンドーナッツ」あるいは「揚げアンパン」と日本で呼ばれるものだが、秋田など一部地方では「油パン」とも呼ばれる。それが今もパラオで残っている。食べてみると、本当に学校給食などで楽しみにしていたアンドーナッツそのままの味だった。
日本の精神文化を大切に守る
パラオにおける日本文化の受容について、アンナさんはこんな風にも感じている。
「パラオの文化に日本の文化がうまく合ったのではないでしょうか。親孝行、目上の人に口ごたえしない、親の面倒は子供がみる。こうしたことはパラオの伝統的な価値観でもあります。パラオの年配者は特に日本人に似ています。考え方や仕事の仕方、働き者で真面目なところも似ています」
日本とパラオ。日本の領土拡大の野心の結果、軍の占領から委任統治という形で支配・被支配の関係にあった両国だが、そのつながりは、言葉や暮らしの中に脈々と生きている。パラオの親日度は世界でも群を抜いているとされる。昨年の天皇誕生日には、地元の新聞に一面でお祝いの広告が出るほどだ。
それは日本が外交や援助でパラオを支えているからだけではなく、パラオの人々が日本文化の中の「価値」を見いだしてくれているからにほかならない。人口2万人の小国とはいえ、日本人が残した日本語や日本文化、そして、日本人の精神をここまで大切に守っているパラオという国とそこに生きる人々を、日本が大切にしない理由はないはずである。
バナー写真:日本の委任統治時代に建設された南洋庁ビル。現在は最高裁判所として使われている
(写真はいずれも野嶋剛氏撮影)