日本のレジェンド

小澤征爾:“人間力”で「世界のオザワ」に上り詰めたカリスマ指揮者

文化

《日本を代表する指揮者・小澤征爾さんが2月6日死去した。“世界のオザワ” の冥福を祈るとともに、敬意を込めて2018年に公開した記事を改めてお届けする》世界のクラシック音楽界で頂点に立つ指揮者の1人、小澤征爾。“音楽エリート” ではなく、苦労しながら努力と行動力、そして人間的魅力で世界に嘱望されるまでに至ったマエストロの軌跡を振り返る。

クラシック界の頂点に駆け上がる

世界における快進撃の始まりは、「N響事件」の翌年、1963年にシカゴ交響楽団が主宰する「ラヴィニア音楽祭」に急きょ代役で出演し、成功を収めたことだった。64年には同音楽祭の音楽監督に就任(68年まで)。65年にはトロント交響楽団の音楽監督に就任した(69年まで)。66年には「ザルツブルク音楽祭」ならびにウィーン・フィル、さらにはベルリン・フィルの定期演奏会にデビュー。70年には「タングルウッド音楽祭」の芸術監督(2002年まで)、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督(76年まで)に就任した。そして73年、ボストン交響楽団の音楽監督に就任し、2002年まで約30年間に及ぶ米国では異例の長期体制を築いた。

79年パリ・オペラ座、80年ミラノ・スカラ座、88年ウィーン国立歌劇場にデビューし、オペラでも世界最高峰の舞台で活躍。2002年のウィーン国立歌劇場の音楽監督就任(2010年まで)に至る。膨大なディスクも録音し、中でも冒頭で言及した「ニューイヤー・コンサート2002」のライブCDは、日本で80万枚(世界で約100万枚)というクラシック界では空前絶後のセールスを記録した。94年にはタングルウッドにその名を冠した「セイジ・オザワ・ホール」が建てられた。

日本での活動も徐々に活発化した。87年に齋藤秀雄の門下生を主体とする「サイトウ・キネン・オーケストラ」の活動を開始。同楽団は世界から一流と目される存在となった。90年には水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任。92年には「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2014年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」)の総監督に就任し、同音楽祭は垂涎の内容で人気を集めた。98年には長野冬季オリンピックの開会式で、世界5大陸を結ぶベートーヴェン「第九」を指揮。2000年には若手音楽家を育成する「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を始めた。

“人間力”で最高の音楽を引き出す

指揮者は、自ら音を出さない不思議な音楽家だ。実際に音を出すのは、おのおのが一家言持つ100名ものプロフェッショナル演奏家集団である。彼らに意を伝え、持てる能力を発揮させ、1つの音楽を形作るには、技術や知識以上に人間的な魅力やカリスマ性を必要とする。指揮法を体系化した齋藤秀雄譲りのバトン・テクニックは素晴らしい。しかし彼の本領は、人柄に努力と経験が加わった “人間力” に尽きる。

小澤のカリスマ性を示すエピソードがある。2015年、新日本フィルの創設期を共にしたティンパニ奏者の山口浩一が亡くなる直前、小澤は彼を見舞いに訪れた。山口はほとんど意識がなく、周りで見守る人たちが「分かったら手を握って」と言うと、辛うじて握り返す程度だった。ところが小澤が声をかけると、パッと目を開け、会話までしたという。

1986年2月13日、東京文化会館における小澤指揮/ボストン交響楽団によるマーラーの交響曲第3番は、筆者にとってこれまで経験した最高のコンサートだった。終始引き付けられた末の深い感銘を、30年以上たった今でもありありと思い出す。この体験は生涯まれな “ギフト” だった。小澤の音楽は熱い。彼はきっと同様の感銘を皆に与えてきたであろう。ここ数年は健康状態を鑑みながら活動している。今秋には83歳を迎える小澤。だがまだまだギフトを与え続けてほしいと願わずにはおれない。

(2018年6月 記)

バナー写真:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演する小澤征爾=2016年4月、ドイツ・ベルリン (C) Holger Kettner(ベルリン・フィルハーモニー提供 / 時事)

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