日本のレジェンド

小澤征爾:“人間力”で「世界のオザワ」に上り詰めたカリスマ指揮者

文化

《日本を代表する指揮者・小澤征爾さんが2月6日死去した。“世界のオザワ” の冥福を祈るとともに、敬意を込めて2018年に公開した記事を改めてお届けする》世界のクラシック音楽界で頂点に立つ指揮者の1人、小澤征爾。“音楽エリート” ではなく、苦労しながら努力と行動力、そして人間的魅力で世界に嘱望されるまでに至ったマエストロの軌跡を振り返る。

(2018年6月12日に公開した記事を再掲致します)

2002年1月1日、小澤征爾はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤー・コンサート」に登場した。60年もの歴史を誇り、約60カ国にテレビ中継されるこの世界的風物詩を指揮する初めての日本人だった。彼は、米国ビッグ5の名門、ボストン交響楽団の音楽監督を約30年にわたって務め、この年の秋からオペラ界の頂点、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することになっていた。さらには、世界最高峰の2強、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン・フィルの定期演奏会にレギュラーで登場する数少ない指揮者の1人だった。これらは全て、西洋の文化であるクラシック音楽の分野で日本人が達成するには、あまりにハードルが高い、正真正銘の偉業である。無論、小澤以外に成し遂げた日本人指揮者はおらず、裾野に近づいた者さえごく限られる。

日本人離れの行動力の原点

小澤征爾は、1935年9月1日、満州国の奉天(現・中華人民共和国の瀋陽)に生まれた。山梨の貧しい農家の出で、苦学の末に歯医者となった父・開作は23歳の時に満州へ渡り、長春で歯科医を開業。その地で征爾の母となる若松さくらと結婚した。だが開作は、アジア民族の一体化を理念とする政治活動に没頭し、政治団体「満州国協和会」の創立委員として奉天に移り住んだ。そこで生まれた三男は、開作が知遇を得た陸軍大将・板垣征四郎から「征」、関東軍参謀・石原莞爾から「爾」を取って「征爾」と命名され、6歳の年まで満州で過ごした。大陸で生まれ育ったこと、さらには父譲りの行動力が、小澤の日本人離れした活躍の源にあるのではないか…そう思えてならない。

小澤はいわゆる “音楽エリート” ではなかった。音楽との出会いは5歳のクリスマスに母が買ってくれたアコーディオンで、ピアノを始めたのが10歳の時。一家は41年に帰国して立川に住まいを移していた。もちろん当時、家にはピアノがなく、後に親戚から譲り受けた際も、兄たちが横浜から立川まで3日かけてリヤカーで運んだ。

ピアニストになる夢はあっても、スタートがあまりに遅い。そんな折の49年12月、日比谷公会堂における日本交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートで、ロシア出身のピアニスト、レオニード・クロイツァーがピアノを弾きながら指揮をする演奏を聴いて、初めて指揮に強い魅力を感じた。そして母さくらの遠縁に音楽教育者・チェロ奏者の齋藤秀雄(1902~74年)がいることが分かり、弟子入りを志願する。中学3年生の時だった。

生涯の師、友との出会いを経て2大巨匠の下へ

人生とは巡り会い。小澤の道のりをたどるとそれを痛感させられる。齋藤秀雄は、桐朋学園で多数の著名指揮者や弦楽器奏者を育てた大功労者だ。彼は小澤の生涯の師となった。

もう1人、齋藤の指揮教室で巡り会ったのが山本直純(1932~2002年)。後にコマーシャルの「大きいことはいいことだ」のフレーズで名をはせた指揮者にして、映画『男はつらいよ』のテーマ音楽を手がけた作曲家である。小澤は最初、兄弟子にあたる山本に指揮を教わった。1952年小澤は斎藤が開設に関わった桐朋女子高等学校音楽科に入学、55年桐朋学園短期大学に進学した。やがて、「音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかない」と強く思うようになった小澤に向かって、山本は「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と言って後押しした。そしてそれは実現した。

59年2月、持ち前の行動力を発揮し、スクーターと共に貨物船で単身渡仏した23歳の小澤は、同年ブザンソン国際指揮者コンクールに挑んだ。実は応募の締め切りを過ぎていたのだが、つてを頼って紹介してもらった米国大使館の職員の口利きで参加がかない、見事優勝。これが飛躍の第1歩となった。

まずは審査員だった巨匠シャルル・ミュンシュの一言でボストン交響楽団が毎夏米国マサチューセッツ州で主宰するタングルウッド音楽祭に参加し(60年)、それを機に、61 年レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に抜てきされた。またヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選出するコンクールにも合格。そこで小澤は、20世紀後半の指揮界を二分するカラヤン、バーンスタイン両雄の薫陶を受けることができた。このような経験を持つ指揮者は、世界でも恐らく小澤しかいない。

1982年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督、ヘルベルト・フォン・カラヤンと共に(Fujifotos/アフロ)

「N響事件」を経て新日本フィル結成へ

小澤征爾は天才ではなく、努力の人である。「勉強、勉強、また勉強」が彼の生き方。そして小澤を知る者は、「彼ほど人懐っこく、人間に対する愛情が深く、義理固い人はいない」と言う。日々の努力にそうした人柄が加わったからこそ、良き巡り会いが生まれたに違いない。

ただ日本では順風満帆ではなかった。1962年には、契約を結んだNHK交響楽団からボイコットされる「N響事件」が起きた。同年6月から半年間の指揮契約を結んでいたが、楽員から27歳の小澤に対し「生意気だ」「態度が悪い」などの感情的反発が生まれていたのだ。そこで翌年「小澤征爾の音楽を聴く会」が開催され、発起人に、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫ら、驚きのビッグネームが並んだ。これも小澤の吸引力のなせる業だろう。しかし彼は事件を機に日本に見切りをつけ、世界にのみ目を向けた。事件は結果的に “世界のオザワ” 誕生を導いたといえる。

72年には、縁あって首席指揮者を務めていた日本フィルハーモニー交響楽団が、フジサンケイグループからの支援を打ち切られる。急きょ米国から帰国した小澤は何とか存続を図ろうと奔走し、天皇陛下へ直訴までする。同年日本芸術院賞を受賞していたが、その授与式で「自分だけ賞をもらいましたが、今一緒にやっているオーケストラは大変な状況なんです」と思わず言ってしまったのだ。結局当時の “財団法人日本フィル” は解散(注:裁判闘争を続けながら自主運営団体として継続し、現在は公益財団法人として活動中)、小澤は山本直純と共に新日本フィルハーモニー交響楽団を結成する。その後長い間、日本では基本的に新日本フィルしか指揮せず、同楽団を起用した山本の公開テレビ番組「オーケストラがやって来た」に再三出演するなど、義理堅さを発揮した。

クラシック界の頂点に駆け上がる

世界における快進撃の始まりは、「N響事件」の翌年、1963年にシカゴ交響楽団が主宰する「ラヴィニア音楽祭」に急きょ代役で出演し、成功を収めたことだった。64年には同音楽祭の音楽監督に就任(68年まで)。65年にはトロント交響楽団の音楽監督に就任した(69年まで)。66年には「ザルツブルク音楽祭」ならびにウィーン・フィル、さらにはベルリン・フィルの定期演奏会にデビュー。70年には「タングルウッド音楽祭」の芸術監督(2002年まで)、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督(76年まで)に就任した。そして73年、ボストン交響楽団の音楽監督に就任し、2002年まで約30年間に及ぶ米国では異例の長期体制を築いた。

79年パリ・オペラ座、80年ミラノ・スカラ座、88年ウィーン国立歌劇場にデビューし、オペラでも世界最高峰の舞台で活躍。2002年のウィーン国立歌劇場の音楽監督就任(2010年まで)に至る。膨大なディスクも録音し、中でも冒頭で言及した「ニューイヤー・コンサート2002」のライブCDは、日本で80万枚(世界で約100万枚)というクラシック界では空前絶後のセールスを記録した。94年にはタングルウッドにその名を冠した「セイジ・オザワ・ホール」が建てられた。

日本での活動も徐々に活発化した。87年に齋藤秀雄の門下生を主体とする「サイトウ・キネン・オーケストラ」の活動を開始。同楽団は世界から一流と目される存在となった。90年には水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任。92年には「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2014年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」)の総監督に就任し、同音楽祭は垂涎の内容で人気を集めた。98年には長野冬季オリンピックの開会式で、世界5大陸を結ぶベートーヴェン「第九」を指揮。2000年には若手音楽家を育成する「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を始めた。

“人間力”で最高の音楽を引き出す

指揮者は、自ら音を出さない不思議な音楽家だ。実際に音を出すのは、おのおのが一家言持つ100名ものプロフェッショナル演奏家集団である。彼らに意を伝え、持てる能力を発揮させ、1つの音楽を形作るには、技術や知識以上に人間的な魅力やカリスマ性を必要とする。指揮法を体系化した齋藤秀雄譲りのバトン・テクニックは素晴らしい。しかし彼の本領は、人柄に努力と経験が加わった “人間力” に尽きる。

小澤のカリスマ性を示すエピソードがある。2015年、新日本フィルの創設期を共にしたティンパニ奏者の山口浩一が亡くなる直前、小澤は彼を見舞いに訪れた。山口はほとんど意識がなく、周りで見守る人たちが「分かったら手を握って」と言うと、辛うじて握り返す程度だった。ところが小澤が声をかけると、パッと目を開け、会話までしたという。

1986年2月13日、東京文化会館における小澤指揮/ボストン交響楽団によるマーラーの交響曲第3番は、筆者にとってこれまで経験した最高のコンサートだった。終始引き付けられた末の深い感銘を、30年以上たった今でもありありと思い出す。この体験は生涯まれな “ギフト” だった。小澤の音楽は熱い。彼はきっと同様の感銘を皆に与えてきたであろう。ここ数年は健康状態を鑑みながら活動している。今秋には83歳を迎える小澤。だがまだまだギフトを与え続けてほしいと願わずにはおれない。

(2018年6月 記)

バナー写真:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演する小澤征爾=2016年4月、ドイツ・ベルリン (C) Holger Kettner(ベルリン・フィルハーモニー提供 / 時事)

芸術 音楽 レジェンド 音楽 芸術 音楽 芸術