日本のレジェンド

オノ・ヨーコ:時代を変革したアーティスト=アクティビスト

文化

1960年代、ビートルズに亀裂をもたらした張本人として世界中から非難を浴びたオノ・ヨーコ。あまりにも先駆的であるが故に長く理解されなかったオノのアーティスト、社会運動家としての本質、その功績を振り返る。

ジョンとヨーコ:互いの最高の理解者

2017年6月、全米音楽出版社協会はジョン・レノンの楽曲「イマジン」の共作者としてオノ・ヨーコの名前を加えると発表した。ソングライターとして2人の名前が並ぶことがレノン自身の希望でもあったことは、生前のインタビューで明らかにされている。

1971年に発表された「イマジン」は、天国も地獄も、国家も無いと想像しなさいと呼び掛けることで反戦と平和のメッセージを歌う名曲だが、この歌詞がオノ・ヨーコの影響で生まれたものであることは、当時から分かる人には分かるようなさりげない提示があった。アルバム『イマジン』の裏ジャケットの下部に小さな文字で、「雲が滴り落ちると想像しなさい。あなたの家の庭にそれを受け止める穴を掘りなさい(imagine the clouds dripping, dig a hole in your garden to put them in.)—ヨーコ、1963年」という一文が印刷されている。これはオノの「インストラクション・アート」(命令形の短い文章による作品)の代表作の一つだ。

インストラクション・アートは、オノ自身「頭の中で組み立てる絵」と称したように実体のない観念の絵画であり、コンセプチュアル・アートの先駆だった。実演可能/不能を超越したパフォーマンスの指示文はどこか俳句や禅の公案にも通じる。オノの著書『グレープフルーツ』(64年 “Grapefruit” /邦題は『グレープフルーツ・ブック』)は「この本を読み終わったら燃やしなさい」という一行で始まるが、最後のページには「この本は、ぼくがこれまで燃やした本の中で最高のものだ—ジョン」という推薦の辞が寄せられている。ここにおいて2人のシリアスとユーモアの息はぴったり合い、レノンがオノの芸術の最高の理解者だったことが分かる。そして、オノは(ザ・ビートルズ時代のポール・マッカートニーに匹敵するほどの)レノンの音楽の最大の協力者であったことも。

前衛芸術家たちの交流を演出

オノ・ヨーコ(小野洋子)は1933年東京の裕福な家庭に生まれた。父方は銀行家、母方は財閥の家系で、親族には芸術家や文化人もいる。戦前の幼少期と戦後の大学時代を父親の赴任先の米国で過ごした。50年代、敗戦国の日本人がまだ自由に海外渡航ができなかった時代にニューヨークに居たことが彼女に人生の指針を与えた。留学中の若き作曲家一柳慧(いちやなぎ・とし)と出会い結婚したことを契機に、現代音楽家ジョン・ケージや美術における「ハプニング」の提唱者アラン・カプローらと出会い前衛芸術に傾倒。

1974年8月米国から帰国した際のオノ・ヨーコ(74年8月9日東京・大田区の羽田空港/ 時事)

60年から1年間、自分のロフトをギャラリーにして若手アーティストに発表の機会を与え、マックス・エルンストやイサム・ノグチなど美術界の大御所を招いて交流を演出した。その後ジョージ・マチューナスによって組織された若手前衛芸術家集団「フルクサス」に関わり、その会合にマルセル・デュシャンを連れてきてメンバーを驚かせたのもオノだった。

こうしたアート・オーガナイザーとしての才覚と社交性はおそらく育ちの良さにも関係している。その恵まれた才能を60年代は前衛芸術に、70年代はロック・ミュージックに、そして80年代以降は広く社会全体に注ぎ込んできたのだとも言える。

偏見とスキャンダルを逆手に

今の若い人には意外に思えるかもしれないが、オノ・ヨーコには長く世間からの誤解と無理解に悩まされた時代がある。1966年レノンと出会うまでの彼女は帰国しても日本の美術界には受け入れられず、レノンと出会ってからはザ・ビートルズに亀裂をもたらした人物として世界中のファンから非難を浴び、マスコミの報道する醜聞によって一種の魔女狩りの様相まで呈した。人びとの前衛芸術に対する偏見や芸能スキャンダルから広まった悪名によって、彼女は当初有名になったと言ってもいい。

2005年10月、日本武道館で開催される「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライブ」のために来日(05年10月4日東京・有楽町のニッポン放送/ 時事)

レノンとヨーコが1969年12月に世界各地の街角で展開した「The WAR IS OVER!」キャンペーン (写真出典: http://imaginepeace.com)

だが、悪名は無名に勝る。レノンとオノ—いやここは敬愛を込めてジョンとヨーコと呼ぶべきだろう—はスキャンダルを逆手に、それまでの一芸術家では成し得なかった社会的なメッセージを次々とメディアを介して発信していった。結婚式後ホテルの一室に取材記者たちを招き入れて行われた対話のイべント《平和のためのベッド・イン》(69年)や《WAR IS OVER! (IF YOU WANT IT)》と大書したビルボード作品(69年)、そしてそのメッセージをクリスマス・ソングにした《ハッピークリスマス(戦争は終わった)》(71年)など一連のべトナム反戦と平和のためのキャンペーンは、いまも戦争や紛争が起こるたびに私たちの意識の中でリマインドされる。

先駆者:ジェンダーや多文化の視点

前衛芸術、現代音楽からロックやポップまで幅広いアーティストであると同時に、女性解放や反戦、平和運動などの急進的なアクティビストとして、オノはその幅広い活動領域のいずれにおいても先駆的だった。いや、早すぎたと言ってもいい。21世紀にみんなに共有された思想や方法を、20世紀から実演してみせていたようにも思える。

例えば、現代のアートにおいて特徴的といえる多様性、ジェンダー(性差)やマルチカルチャー(多文化)の問題をオノは半世紀も前から作品の主題としていた。いま思えば、1960年代にオノが活躍の場としたフルクサスこそが、当時まだ白人男性アーティストが主流だったニューヨークのアート・シーンの片隅に集った移民や外国人、黒人やアジア人、そして女性も含むさまざまなマイノリティーによる表現者集団だった。フルクサスとはラテン語で「流転」を意味するが、その自然発生的な流れはやがてとめどない大きな潮流へとつながっている。

オノを一躍有名にした64年のイべント《カット・ピース》では、ステージの中央に座ったオノは何もせず、観客は順番に壇上に上がって彼女の衣服にはさみを入れていくという奇妙なパフォーマンスだった。ここではまだ無名の東洋人の若い女性アーティストという幾重もの意味で社会的弱者であることが、「見る/見られる」という観客と芸術家の倒錯した共謀と、「切る/切られる」という行為の積み重ねによって露呈される。オノは自身の属性を身体的に提示することによって、視覚芸術に向けられる視線とは男性的な欲望を内包する無意識の暴力であるという本質をあらわにする。この静かな主張はレノンとの出会い以後、ロック・ミュージックという若者文化の拡声器を通じてプラスチック・オノ・バンドが歌う女性解放ソングにもなった。オノの主張が後世のフェミニズムの形成にも影響を与えただけでなく、レノンが自らハウス・ハズバンドと称して子育てを始めたことも現在では家庭から社会まで幅広く浸透している。

1965年ニューヨークのカーネギーホールで行った《カット・ピース》パフォーマンス(Photo: Minoru Niizuma, © Yoko Ono; Courtesy of Lenono Photo Archive http://imaginepeace.com)

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