日本のレジェンド

「大衆」と「芸術」の頂点に立つ男、北野武の功績とその「仕事スタイル」

文化 Cinema

宇野 維正 【Profile】

日本のお笑い界トップの芸人として活躍する一方で、海外ではフランス政府から勲章を授与されるほど芸術家としての名声を確立した北野武。常に「大衆性」と「芸術性」の両輪で最前線を突き進んできた。

「世界のキタノ」への転換点

当初は商業的に失敗し、批評家からも黙殺された(と北野本人は度々嘆いているが、それでも一部ではごく初期からその斬新さを称える声が国内にもあった)北野武の監督作品だが、監督7作目となる『HANA-BI』が1997年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことで大きく風向きが変わった。北野は「テレビ界のトップ」の王座に君臨したまま、「世界のキタノ」として国内でも賞賛されるようになったのだ。

1997年のべネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際の帰国会見(1997年9月9日 成田空港/時事)

当時、日本の映画業界では北野武だけでなく、ミュージシャンや作家など、さまざまな異業種のクリエイターたちが映画監督業に参入していたが、ほとんどのクリエイターは1本か2本撮った後、失意のうちに映画の世界を去っていった。比べるまでもなく北野の映画はそれらのどんな作品とも芸術的な水準がまったく異なっていたが、テレビの仕事をしながら作品を撮り続けるという環境を最初の段階から築き、そこで実際に継続して作品を撮り続けることができたという事実も大きいだろう。世界がその才能に気付くまで、彼は何の妥協もすることなく、かたくなにパーソナルな作品を作り続けることができたのだ。

また、彼が公に影響を受けた作品について口にすることは少ないが、その作品にはハリウッドやヨーロッパの古典作品を含む膨大な作品を研究し尽くした痕跡が残されていた。北野武は日本のテレビ界のトップに立ちながらも(あるいは、そうであるからこそ)、映画の歴史に対してとても謙虚な姿勢を貫いてきた。それが、多くの「異業種クリエイターの撮った映画」との決定的な違いだった。

映画への造詣を深める中で、映画監督にとっての「作家性」の重要さに気付いていた北野は、最初は撮影現場での偶然から生まれ、後に世界中の映画マニアから「キタノブルー」と呼ばれることになる青色を強調した独特の色調を、ある時期の作品まで自らのフィルムに執拗(しつよう)に焼き付けてきた。2002年の『Dolls』以降、その作家としてのトレードマークを意識的に剥がしていくようになるが、それは既に当時確固たるものにしつつあった世界的な評価に甘んじることなく、映画監督としての成長を自らに課してきた証しの一つと言えるだろう。

「大衆性」と「芸術性」の一体化へ

北野作品の時代ごとの変遷については本稿では書き切れないが、特に中期までの作品のベースにあったのは、強烈な厭世(えんせい)観と、このままこの世界から消え去ってしまいたいという願望であったように思う。それは恐らく、「テレビ界のトップ」に長年君臨し続けていたからこそ至った境地であったはずだ。そして、そのようなドメスティックなコンテクストなんて当然知る由もなく、何の先入観もなかった海外の批評家と観客は、突然目の前に現れたその作品の鮮烈なポエジーに激しく心を揺さぶられた。

先日、既に撮影を終えて完成していることが公表された北野武にとって18本目の監督作となる『アウトレイジ 最終章』は、本稿で述べてきた彼の「大衆性」と「芸術性」が交差した場所から生まれたヒット・シリーズの3本目にして、シリーズ最後の作品となる。もし90年代の北野だったら、自分がヒット作の続編を撮るなどという発想はまったくなかっただろうし、まして3作目まで作ることになるなんて想像すらできなかっただろう。2017年1月に70歳となる北野武は現在、「大衆性」と「芸術性」の両輪による長い旅路の果てに、ようやくそれらが完全に一体化した表現の場所に立っているのかもしれない。

(2016年12月18日 記)

バナー写真:「第8回したまちコメディ映画祭」の「ビートたけしリスペクトライブ」で、「浅草キッド」を歌うビートたけし (2015年9月22日 東京都台東浅草/時事)

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映画・音楽ジャーナリスト。1970年、東京都生まれ。「ロッキング・オン・ジャパン」「CUT」「MUSICA」などの編集部を経て、現在はウェブマガジン「リアルサウンド映画部」主筆。主な著書は『1998年の宇多田ヒカル』『くるりのこと』(共に新潮社、2016年)。

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