日本のレジェンド

「大衆」と「芸術」の頂点に立つ男、北野武の功績とその「仕事スタイル」

文化 Cinema

日本のお笑い界トップの芸人として活躍する一方で、海外ではフランス政府から勲章を授与されるほど芸術家としての名声を確立した北野武。常に「大衆性」と「芸術性」の両輪で最前線を突き進んできた。

2つの名前を駆使して

2016年10月にフランスのレジオン・ドヌール勲章を受勲し、その前人未到のキャリアにさらなる彩りを加えた北野武。「芸術ジャンルの限界をやすやすと乗り越え、演劇・テレビ・映画・文学などの約束事を変革し、現代のアートシーンに影響を与えた」のが受賞理由だ。つまり、その前提には北野武という不世出の表現者の活動全般への深い理解があったわけだが、映画監督として北野しか知らない海外の人に、その功績を過不足なく正確に伝えるのはとても難しい。その理由は、今から28年前に『その男、凶暴につき』で映画監督としてのキャリアをスタートさせる前から、彼が10年近くにわたって「日本で最も人気のあるお笑い芸人」であったという事実だけではない。その後も、彼は右手にはお笑い芸人としての大衆性を、左手には映画作家としての芸術性を抱えながら、そのどちらの手も一度たりとも放さず、30年近くにわたって最前線で走り続けるというアクロバティックなキャリアを歩み続けているのだ。

北野武の仕事はお笑い芸人、映画監督だけにとどまらない。彼は(その大半の作品で自身も出演者の1人である)映画作家となる前から、1983年の大島渚監督『戦場のメリークリスマス』を筆頭に、個性派俳優として国内外のさまざまなジャンルの映画作品、そして国内のドラマ作品で評価を得てきた。また、ラジオDJやCMタレント、テレビの教養番組やニュースショーのコメンテーターとして活躍する一方で、作家として小説を書き、画家として個展を開いてきた。

「第8回したまちコメディ映画祭」の「ビートたけしリスペクトライブ」で、出演者らと歌うたけし。同映画祭でコメディ栄誉賞受賞(2015年9月22日 東京都台東浅草/時事)

一時的に関わってきた仕事までそこに加えれば切りがなくなるが、それら全てを少々強引ではあるが、お笑い芸人としての仕事に象徴される「大衆性」と、映画作家としての仕事に象徴される「芸術性」に二分することは可能だろう。前者では「ビートたけし」、後者では「北野武」と名前を使い分けている(そこまで厳密ではない場合もあるが)ことからも明らかなように、北野武とはその「大衆性」と「芸術性」の両輪によって走ってきた表現者である。もしその片方が途中で欠けていたとしたら、ここまで長きにわたって走り続けることはできなかったのではないかと思う。

「テレビ界のトップ」からの潜在的な逃避願望

言うまでもなく、お笑い芸人という仕事はドメスティックなコンテクストの中で消費される仕事である。「世界的に人気のあるコメディアン」という存在が、ほぼ米国からしか出てこないのは、世界で唯一米国だけが、その国内のコンテクストを世界中から共有されているからだ(もちろん、米国でも極端にドメスティックなコンテクストに依存したコメディアンは国外で支持が広がることはない)。1970年代前半、浅草のストリップ劇場に住み込みで働くエレベーターボーイという北野武のスタート地点は、これ以上ないほどドメスティックな場所であった。

80年代に入って、当時の漫才ブームを代表する漫才コンビ、ツービートの1人として一躍テレビの人気タレントとなったビートたけし。お笑い芸人としてのビートたけしを語る際に強調しておくべきなのは、彼は80年代初頭から(つまり映画作家としてデビューする10年近く前から)ずっとテレビの世界でトップに立っていたということだ。映画や音楽といった他のジャンルと比べてテレビの影響力が圧倒的に強かったその当時の日本において、「テレビ界のトップ」ということは、ドメスティック・カルチャーにおいてトップであるということを意味する。

86年に彼が仲間を引き連れて起こした「フライデー襲撃事件」(編集部注:写真週刊誌『FRIDAY』のしつこい取材に激怒し、集団で同誌編集部を襲撃した事件)、94年に起こしたほとんど自殺未遂に近い深夜のバイク事故は、長い年月にわたってそんな「狭い世界のお山の大将」であり続けてきたことからくるフラストレーションや歪み、逃避願望がその遠因になっていたと、後年の本人の発言などからもうかがい知ることができる。

そして、それが幸いなことなのか残酷なことなのかは見方によって変わってくるだろうが、86年の商業的な自殺未遂と94年の肉体的な自殺未遂は、二重の意味で「未遂」に終わる。それぞれの事件の後に長い休業期間を余儀なくされた北野武だったが、休業が明けてしばらくしてから日本のテレビ界が彼に与えたのは、相変わらず「トップ」の席だった。

そう考えると、90年代以降の北野武が、映画作家として「テレビの向こう」、そして「海の向こう」に新たな活動の場を求めたのは必然だったとも言えるだろう。かつて映画監督のジョン・カサヴェテスが自身のパーソナルかつアーティスティックな作品の製作費を捻出するために、商業的な作品で俳優としての出演料を稼いでいたように(現在もそういう監督兼俳優はたくさんいる)、北野武は誰にも口出しされない聖域で自身の個人的な動機に基づくアーティスティックな作品を撮るために、タレントとしての「ビートたけし」を最大限に利用するようになる。自身が冠を務める番組を何週分もため撮りして、それによって捻出した時間に映画を撮るなどというワガママがテレビ界でも映画界でも許されたのは、彼がテレビ界のトップであり、主に自身(の事務所)の資金によって映画を作っていたからだ。

「世界のキタノ」への転換点

当初は商業的に失敗し、批評家からも黙殺された(と北野本人は度々嘆いているが、それでも一部ではごく初期からその斬新さを称える声が国内にもあった)北野武の監督作品だが、監督7作目となる『HANA-BI』が1997年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことで大きく風向きが変わった。北野は「テレビ界のトップ」の王座に君臨したまま、「世界のキタノ」として国内でも賞賛されるようになったのだ。

1997年のべネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際の帰国会見(1997年9月9日 成田空港/時事)

当時、日本の映画業界では北野武だけでなく、ミュージシャンや作家など、さまざまな異業種のクリエイターたちが映画監督業に参入していたが、ほとんどのクリエイターは1本か2本撮った後、失意のうちに映画の世界を去っていった。比べるまでもなく北野の映画はそれらのどんな作品とも芸術的な水準がまったく異なっていたが、テレビの仕事をしながら作品を撮り続けるという環境を最初の段階から築き、そこで実際に継続して作品を撮り続けることができたという事実も大きいだろう。世界がその才能に気付くまで、彼は何の妥協もすることなく、かたくなにパーソナルな作品を作り続けることができたのだ。

また、彼が公に影響を受けた作品について口にすることは少ないが、その作品にはハリウッドやヨーロッパの古典作品を含む膨大な作品を研究し尽くした痕跡が残されていた。北野武は日本のテレビ界のトップに立ちながらも(あるいは、そうであるからこそ)、映画の歴史に対してとても謙虚な姿勢を貫いてきた。それが、多くの「異業種クリエイターの撮った映画」との決定的な違いだった。

映画への造詣を深める中で、映画監督にとっての「作家性」の重要さに気付いていた北野は、最初は撮影現場での偶然から生まれ、後に世界中の映画マニアから「キタノブルー」と呼ばれることになる青色を強調した独特の色調を、ある時期の作品まで自らのフィルムに執拗(しつよう)に焼き付けてきた。2002年の『Dolls』以降、その作家としてのトレードマークを意識的に剥がしていくようになるが、それは既に当時確固たるものにしつつあった世界的な評価に甘んじることなく、映画監督としての成長を自らに課してきた証しの一つと言えるだろう。

「大衆性」と「芸術性」の一体化へ

北野作品の時代ごとの変遷については本稿では書き切れないが、特に中期までの作品のベースにあったのは、強烈な厭世(えんせい)観と、このままこの世界から消え去ってしまいたいという願望であったように思う。それは恐らく、「テレビ界のトップ」に長年君臨し続けていたからこそ至った境地であったはずだ。そして、そのようなドメスティックなコンテクストなんて当然知る由もなく、何の先入観もなかった海外の批評家と観客は、突然目の前に現れたその作品の鮮烈なポエジーに激しく心を揺さぶられた。

先日、既に撮影を終えて完成していることが公表された北野武にとって18本目の監督作となる『アウトレイジ 最終章』は、本稿で述べてきた彼の「大衆性」と「芸術性」が交差した場所から生まれたヒット・シリーズの3本目にして、シリーズ最後の作品となる。もし90年代の北野だったら、自分がヒット作の続編を撮るなどという発想はまったくなかっただろうし、まして3作目まで作ることになるなんて想像すらできなかっただろう。2017年1月に70歳となる北野武は現在、「大衆性」と「芸術性」の両輪による長い旅路の果てに、ようやくそれらが完全に一体化した表現の場所に立っているのかもしれない。

(2016年12月18日 記)

バナー写真:「第8回したまちコメディ映画祭」の「ビートたけしリスペクトライブ」で、「浅草キッド」を歌うビートたけし (2015年9月22日 東京都台東浅草/時事)

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