Love Forever: 草間彌生の素顔
文化 美術・アート- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
苦難の道を歩んだ天才
昨年、草間彌生は日本のアーティストに与えられる最高の栄誉である文化勲章を受章した。草間は長野県松本市の名門の家に生まれ、若くして画家としての才能を認められ、ニューヨーク時代にはネット・ペインティングのシリーズなどで脚光を浴び、90年代以降はヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展、ニューヨーク近代美術館、ロンドンのテート・モダンから今春の国立新美術館(東京・六本木)に至るまで、世界各地の主要な国際展や美術館で相次いで回顧展が開催されてきた。外形的に見ればまさに順風満帆の天才アーティストと思われてしまうかもしれないが、実際には彼女の人生は順境であるどころか、幼い頃から精神的な病理に苦しめられ、また周囲の無理解や偏見とも戦わなければならないという、壮絶なるいばらの道を歩むことを強いられてきたのである。しかしその苦難に満ちた道のりこそが、愛による世界の救済を願う彼女のアーティストとしての大いなる思想をもたらし、誰の心にも深い感銘を与えることになったとも言い得るのではなかろうか。
私が彼女に最初に出会った(というか見た)のは、米国からの帰国後の1976年、銀座の小さな画廊で開かれた小品のコラージュ展であった。小柄な彼女は片隅の椅子にちょこんと座っていたような記憶があるが、こちらは無名の若者であるし、またパプニングなどを繰り広げたニューヨークのスキャンダルの女王という噂を耳にしてもいたので、話し掛ける勇気もないままに画廊を出てしまった。しかし作品から受けた衝撃はあまりにも大きかったと言わなければならない。画面がたたえるポエジーの深さ、戦慄(せんりつ)的といってもよい官能性に、妙な先入見は一挙に吹き飛んでしまったのである。
その後、ほどなくして私は美術館に勤めることになったが、キュレーターとして常に念頭にあったのは、この法外な天才を国際的に再評価させなければならない、それもいわゆるアウトサイダーとしてではなくPost-war Artの展開における中軸的な存在として位置付けなければならないという、傍目には滑稽(こっけい)なくらいの使命感であった。彼女のユニークな資質を評価する人は当時にあっても少なくはなかったが、それはもっぱらinterestingな(興味深い)異端としての才能に向けられていたからだ。
幸いにしていま、草間はgreat (偉大)でありsublime(卓越した)でもあるアーティストとして広く認められるようになっている。それは80歳を越えてからの制作が衰えを知らないどころか、第2の黄金期ともいうべき展開を見せているからだが、それと同時に彼女が久しく掲げて続けてきたLove foreverというメッセージが、不寛容なイデオロギーが蔓延する時代にあってより真摯な意味を帯びて伝わってくるからでもあろう。
みんなのアバンギャルド
しかし先に述べたようにこの豊かなる愛のメッセージは、彼女が幼き日から抱えざるを得なかった特異なオブセッション(強迫観念)と深く関わっている。彼女はしばしば花柄の模様が空間を埋め尽くし、自らもその中に消滅させられてしまうというような幻覚に襲われたのだが、すでに小学校の頃のドローイングにも登場してくるネット/ドットのパターンは、その恐怖のイメージを描くことによって逆に心的な負荷を解消しようとする、本能的な芸術療法であったのかもしれない。ニューヨーク時代の絵画の無数の網目が連なる“単純にして複雑な”大画面は、見方次第では幼少期以来の空間恐怖的なオブセッションの産物でもあったのだ。しかしそのオール・オヴァー(※1)な絵画空間のありようが、実のところダイナミックなストロークを際立たせたアクション・ペインングから禁欲的なミニマリズムへと向かうニューヨーク・スクール(※2)の転換点をなしたという事実は、草間が単に自らの殻に閉じこもった異端ではなく、むしろ歴史を推進させる弁証法的な力学の正当なる体現者であったことを証していよう。
ニューヨークでの草間は絵画に並行してペニス状のクッションで覆われた家具やボードなどのソフト・スカルプチャーをも制作していた。日常生活の中のオブジェがそのまま流用されている点ではポップアートの嚆矢(こうし)とも見なし得るシリーズだが、不穏な性的イメージで埋め尽くされていることは、やはり彼女ならではの心的オブセッションを強く印象づけずにはおかない。
草間の制作は確かに心理的な抑圧からの解放を願う行為ではあるが、彼女の真の偉大さは、その願いが自己と世界との同時的な救済の祈りへと昇華し得ているところにあるに違いない。ニューヨークでの反戦ハプニングを見ても分かるように、草間はいかに孤立しているように見えようとも、社会とは断絶したアウトサイダーではなく、愛のメッセージを掲げ続けてきた“みんなのアヴァンギャルド”なのである。
ミューズ降誕:神秘の制作プロセス
さて今年3月で88歳になる草間彌生は、尋常ではない集中力をもっていまだかつてないほどの旺盛な制作活動に取り組んでいる。近作の絵画の特色としては、従来のようなオール・オヴァーではない画面構成が見られるようになったこと、具象的なイメージが登場してきたこと、また「わが永遠の魂」と題されたシリーズの大胆な色彩感覚は、ネット・ペインティングのモノクロームの世界とは対極的なものであって、むしろコロリスト(※3)としての卓越した資質をうかがわせていることなどが挙げられよう。さらにいえば自画像とおぼしき顔や帽子やメガネ、カップ、ハンドバッグといったアンチーム(※4)なイメージが頻出し、新たなポップ的感覚が生じていること、筆遣いにおいてドローイング的な方法とタブローの方法とが一体化していることなども注目されてよい。
アトリエでの草間を見ていて、驚かされることがある。彼女の制作には試行錯誤が一切見られないのである。彼女は習作や下絵を必要とせず、逡巡することなく一挙に直接に作品を完成させる。一見恣意的に見えなくもない手の動きが、そのまま宇宙の摂理ともいうべき必然性に結び付いていくという神秘的なプロセスがそこにあるといってもよい。
あるテレビのインタビューで、新たなキャンバスに向かう彼女が「これから何を描かれるのですか」と尋ねられ、「私の手に聞いてください」と答えていたのを聞いたことがある。一見、シュールレアスム的なオートマチスム(※5)を思わせもなくない言葉だが、しかし彼女は何ら表現を偶然性に委ねようとしているわけではない。たしかに事前の構想は一切ないままに制作に取りかかるのだが、絵筆がキャンバスに触れた瞬間に草間にはビジョンが明確に見えており、筆の運びが滞ることはない。次々と意表を突くような新たなイメージが繰り出されていく光景は、そう、誰の目にも“ミューズが降りてくる”という言葉を思い起こさせずにはおくまい。
愛らしく不穏な草間の世界
草間の近作にはどこかユーモラスでもある童画のような無垢な世界と霊的な異界とが交互に立ち現れてくる。そうした両義性は彫刻作品にもいえることで、たとえば巨大な花々のシリーズではシャングリラの園のようなファンタジーと肉厚の食虫花を思わせるディアボリック(※6)な感触とが共存している。草間自身、悪魔は私の敵であり、戦友でもあると述べているが、この天才の創造の深淵には容易には解明できない謎が、まだまだ潜んでいるに違いない。愛らしくもまた不穏な草間の世界に私たちはこれからも魅せられ続けることになるだろう。
<展覧会情報>
「草間彌生 わが永遠の魂」展 2017年2月22日(水)~5月22日(月)
http://kusama2017.jp/
■会場
国立新美術館 企画展示室1E【東京・六本木】
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
(バナー写真:制作風景 ©YAYOI KUSAMA)