荒木経惟—生と死の境界を自在に行き来する「私写真」
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荒木経惟(あらき・のぶよし)は日本国内だけでなく、国際的にも最もよく知られた、人気のある写真家の一人である。国内外の美術館やギャラリーで精力的に展覧会を開催し、写真集を刊行し続けている。著作の数が500冊を超えるというのは、まさに異常事態であり、空前絶後といってよいだろう。
「私写真」への道
荒木は1940年に、東京の下町である下谷区(現台東区)三ノ輪に生まれた。家業は下駄屋であり、父の長太郎は熱心なアマチュア写真家でもあった。この父の影響で、彼は小学生の頃から自分で写真を撮影するようになる。
自宅の真向かいには浄閑寺があった。江戸時代に、吉原遊郭の身寄りのない遊女の遺骸を門内に運び込んで放置したので、「投げ込み寺」と称されたこの寺は、少年時代の荒木の遊び場でもあった。彼は後年、自分の写真の基本的なあり方を「エロトス」と称するようになる。エロス(生、性)とタナトス(死)を組み合わせた独特の「荒木語」だが、生と死の世界を自在に行き来するような資質は、生まれ育った土地に根ざしているといえそうだ。
すでに高校時代から写真家になることを志していた荒木は、59年に千葉大学工学部写真印刷工学科に進む。理科系の授業が中心で、単位を取るのには苦労したようだが、63年に無事卒業し、広告代理店の電通に入社した。この時の卒業制作が、近所の子どもたちの集団を生き生きと活写した「さっちん」であり、64年にヴィジュアル誌『太陽』(平凡社)が公募する第1回太陽賞を受賞して、荒木の写真家デビュー作となった。
電通時代は広告カメラマンとしての仕事をこなしながら、会社のスタジオでヌード写真を撮影して展覧会を開催したり、やはり会社のコピー機で自作を印刷した手作りの写真集(『ゼロックス写真帖』 1970)を配布したりするなど、ゲリラ的な活動を展開する。その中でも特に重要なのは、電通の同僚だった青木陽子との京都、九州への新婚旅行を撮影して、自費出版の写真集としてまとめた『センチメンタルな旅』(71)である。
その序文にあたる文章で、荒木は「私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです」と書いた。自分と身近な他者との関係を細やかに綴(つづ)っていく「私小説」としての写真は、後に「私写真」と称されるようになり、日本の写真表現の重要な水脈となっていく。だが、『センチメンタルな旅』は、単に荒木と陽子との個人的な関係の在り方を描いているだけではない。むしろ生の世界から死の世界へ、そして再び生の世界へと回帰する、普遍的、神話的な物語として成立していた。
過激なヌード写真で摘発
荒木は1972年に電通を退社し、フリーランスとして活動し始める。黒眼鏡に八の字髭(ひげ)という特徴のある風貌でさまざまなメディアに登場し、自ら「天才アラーキー」と名乗って八面六臂(はちめんろっぴ)の活動を展開するようになるのもこの頃からだ。スキャンダラスなヌード写真に注目が集まることが多く、ややいかがわしいイメージがつきまとってはいたが、74年に国立近代美術館(東京)で開催された「15人の写真家」展の出品作家に選出されるなど、一部では高い評価を受け始めていた。
81年に『写真時代』(白夜書房)が創刊される。この雑誌に、荒木は毎号「景色」、「少女フレンド」、「荒木経惟の写真生活」の「三大連載」を掲載し、全力投球で自らの作品世界を拡張していった。『写真時代』は若い男性向けのエロチックな写真や記事が売り物だったが、荒木だけでなく森山大道、倉田精二、北島敬三らも意欲作を掲載し、活気あふれる誌面を作り上げた。この時期に荒木が刊行した『荒木経惟の偽日記』(白夜書房 1980)、『写真小説』(集英社 81)、『少女世界』(白夜書房 84)などを見ると、実際にあった出来事と仕組まれた虚構との境目を曖昧にして、見るもの全てを強引に「私写真」として成立させてしまう手法に磨きがかかってきたことが分かる。
『写真時代』が88年に過激なヌードで摘発され、休刊になった後も、生まれ育った東京の変貌を、昭和から平成へと移り変わる時代と重ね合わせた『東京物語』(平凡社 89)、『TOKYO NUDE』(マザーブレーン 同)といった名作を発表する。
日本を代表する写真家に
だがこの頃、荒木の身辺には大きな波風が立ち始めていた。20年間連れ添った妻、陽子が子宮癌(がん)で倒れて、1990年に死去したのだ。荒木はその運命の急変を、写真家として全身全霊で受け止め、写真作品として昇華して投げ返すことで乗り切ろうとした。91年に、20年前の『センチメンタルな旅』の写真と、陽子の死の前後を日付入りコンパクトカメラで撮影した写真日記「冬の旅」とをカップリングした『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社)が刊行される。細部まで練り上げられた写真とテキストは、それまで積み上げてきた「私写真」の探求の集大成となっていた。
陽子の死を一つのきっかけとして、荒木はさらなる表現の高みをめざして「第2ラウンド」の活動を開始する。この時期に刊行された『東京ラッキーホール』(太田出版 90)、『空景・近景』(新潮社 91)、『エロトス』(リブロポート 93)といった写真集は、すべて力のこもった傑作であり、緊張感がみなぎっている。
またこの頃から、荒木の活動は海外でも注目されるようになり、92年にオーストリア・グラーツのフォルム・シュタットパルクで開催された「AKT TOKYO」展(以後、ヨーロッパ各地を巡回)を皮切りに、ウィーン、パリ、ローマ、台北、ロンドンなどでも大規模な個展が相次いで開催された。国内でも99年に東京都現代美術館で個展「センチメンタルな写真、人生。」が開催され、96~97年には全20巻の『荒木経惟写真全集』(平凡社)が出版されるなど、日本を代表する現代写真家としての評価が完全に確立した。
それでも、彼の果敢な実験精神は全く衰えを見せていない。2000年代に入ると、荒木の写真表現はより融通無碍(ゆうずうむげ)なものになり、写真にペインティングしたり、字を書き込んだり、複数の写真をコラージュしたりといった操作をより積極的に行うようになる。時には、純粋に画家、あるいは書家としての作品を発表することもある。2009年に刊行された『遺作 空2』(新潮社)は、09年1月から8月15日まで、日記を綴るように制作された254点を集成した作品集だが、写真とペインティングやコラージュは渾然一体となり、エロスとタナトスを自在に混ぜあわせていく作風が独自の高みに達している。
衰えぬ創作意欲
2008年に前立腺癌で入院・手術、10年には長年一緒に暮らしてきた愛猫、チロが22歳という長寿を全うして死去、11年の東日本大震災、13年には動脈血栓で右目を失明するなど、この時期、彼の周辺ではネガティブな出来事が続いた。あの絶妙な「エロトス」のバランスも、タナトスの側に大きく傾きつつあるように見える。それでも、前立腺癌手術の前後の日々をドキュメントした写真集『東京ゼンリツセンガン』(ワイズ出版 2009)や、哀切極まるチロの闘病記『チロ愛死』(河出書房新社 10)、撮影したポジフィルムの右半分を黒マジックで塗りつぶした「左眼ノ恋」(14)などのシリーズを見ると、彼がなおも旺盛な創作意欲で活動を続けていることがわかる。
14年には豊田市美術館、新潟市美術館、資生堂ギャラリーの3カ所で「往生写集」と題する連続展を開催した。そこでは、自宅のマンションから、眼下の道を撮影し続けた「道路」(14年に写真集『道』として河出書房新社から刊行)、震災後にフクシマの方向にカメラを向けて撮り続けた「東ノ空」など、力のこもった新作を発表した。16年4月~9月には、パリのギメ東洋美術館で新作を含む大回顧展「ARAKI」が開催され、ヨーロッパの観客に、改めて彼の作品世界の凄(すご)みを強く印象付けた。
かつては「知る人ぞ知る」のマイナーな存在だった荒木は、今やメジャーとして世界の写真表現の最前線に立ち続けている。だが、荒木の基本的な創作のスタイルに変わりはない。体の具合がやや心配だが、先日お会いした時には「今年は5カ所くらいで新作の展示をしたい」と意気軒高だった。時にはユーモアを交えながら、軽やかにさまざまなイメージと戯れ、観客をその世界に引き込んでいく魔術的なチカラを、今後も存分に発揮し続けていくのではないだろうか。
バナー写真:荒木経惟の肖像写真 © Nobuyoshi Araki
協力:タカ・イシイギャラリー、写真集食堂めぐたま