戦争を考える

被爆体験伝承者:ヒロシマの記憶を受け継ぐプロフェッショナル

社会

広島に、被爆体験伝承者という人がいる。いずれは到来する、被爆者がすべて亡くなってしまう時代に備え、市が養成に乗り出した人材だ。被爆者の体験を丸ごと頭と心に刻み付け、活動を開始している。

しっかりと、詳しく、正しく

原爆に関する資料を展示し、昨年は米国のオバマ大統領も見学した広島平和記念資料館(広島市)。その一室で11月上旬の昼下がり、15人ほどの来場者が静かに着席し、被爆の証言を聞く催しの開始を待っていた。だが、正面でスタンバイする話者は、明らかに戦後生まれと思われる中年の女性だった。

定刻にその女性が語り始めた。

「私は1963年生まれ。原爆には遭っていません。けれども、被爆者の人たちにしっかりと、詳しくお話を伺いました。それを皆さんに正しくお伝えするのが、私たち被爆体験伝承者の役割です。どうか、しっかり聞いていただきたいと思います」

話者の細光規江さん(54)は、広島市が養成した被爆体験伝承者だ。この日語ったのは、12歳の時、爆心地から3.5キロ離れた自宅で被爆した笠岡貞江さん(85)の体験だ。

講話する細光規江さん

劣悪な食糧事情から、当時の中学生は今の小学3、4年生ほどの体格しかなかった。市内では8000人以上の中学1、2年生が建物疎開の作業に動員され、その8割に当たる6300人が原爆で亡くなった――。原爆が投下された頃の生活事情について説明した後、話題は笠岡さんの被爆体験に移った。

「8月6日、貞江ちゃんの両親は、朝早く爆心地から約1キロの所に建物疎開の作業で出かけていました。貞江ちゃんはおばあさんと2人で朝ご飯を食べて、その後片付けをする。そして、洗濯物を裏庭に干します。それが終わって、家の中の、ちょうど爆心地の方角に窓ガラスがある部屋に足を踏み入れた、その瞬間です」

一呼吸ほどの沈黙。細光さんは「突然!」と言い放つと、その時の詳細を一気に語り始めた。

「目の前が初日の出の太陽にオレンジ色を混ぜたような、きれいな色に光りました。その後、ドン!という音で、同時にガラスが粉々に壊れて自分の方に襲ってきます。風圧に押されて一瞬気を失ったようです。はっと気が付いて、頭に手をやる。ヌルっとする…」

笠岡さんの頭は、飛んできたガラスで傷ついていた。ただ、耳と目を手で押さえてうつ伏せになるという体勢を取ったためか、それ以上の負傷はなかった。

笠岡さんが“その時”にとった体勢を説明する細光さん

「頭はガラスで傷ついているけど、あまり痛いとは感じない。いろんな感覚が麻痺していた、って(笠岡さんは)教えてくれました」

笠岡さんは、祖母を連れて近くの防空壕(ごう)に逃げ込み、しばらくして外に出た時、変わり果てた街を目にした。

「電信柱は傾いています。電線がぶら下がっています。瓦も壁土もみんな落ちています。『うちに爆弾が落ちたんじゃ』。みんなが口々に言っています。原爆に遭った人は、あんな大きな爆弾が落ちてくるなんて思ってもいません。ですから、みんながね、自分の近くに爆弾が落ちた。自分の近くが攻撃された。そんなふうに思ったそうです」

広島県産業奨励館(原爆ドーム)と爆心地付近=1945年11月、米軍撮影(広島平和記念資料館提供)

笠岡さんが原爆で両親を失ったこと。その後、どういう思いで生きてきたのかということ。細光さんの語りに、来場者は身じろぎもせずに聞き入っていた。

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