戦争を考える

光を伝えるから、闇が際立つ:戦没画学生の絵を集めた「無言館」

社会

「もっと描きたい」。そう切望しながら戦死した画学生の絵が、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」に並んでいる。開館20周年を迎えた5月、館主の窪島誠一郎さん(75)に今思うことを聞いた。

長野県上田市の上田電鉄塩田町駅から車で約10分。徒歩では息が切れそうな急な坂道を300メートルほど登り切ると、目指す美術館があった。吹き抜けていく風が、辺りの新緑を揺らしている。

木立の中にひっそりとたたずむ無言館本館

目の前の建物が本館で、少し下ったところに、「傷ついた画布のドーム」と呼ばれる第2展示館がある。両者を合わせたのが、戦没画学生慰霊美術館「無言館」だ。

本館に入ると、やや暗いひんやりとした空間が広がっていた。中央まで進むと、空から見れば十字の形をした展示スペースになっていることが分かる。壁には整然と絵が掛かり、パレットや写真、手紙といった作者たちの遺品も通路に陳列されていた。

本館の内部

作品の大きさやモチーフは様々だが、それぞれの作者が、美術学校に在籍した学生、または独自に絵を学んでいた絵描きの卵だった点は同じだ。そして、彼らが戦争のために命を落としたという人生の結末も共通している。

作品ごとに、エピソードがある。

女性が横を向いて立つ『裸婦』。描いた日高安典さんは、戦地に出発する自分を送る会が沿道で始まってもなお、絵筆を置こうとしなかった。モデルである恋人に、「必ず生きて帰ってこの絵の続きを描くから」と言い残したが、フィリピンで戦死した。享年27歳。

日高安典『裸婦』

肖像画『静子像』と、横たわる女性のデッサン『裸婦』。美術教師をしていた佐久間修さんが、妻をモデルに描いた。佐久間さんは勤労動員で生徒を引率して長崎県の航空学校へ行った時、敵機から爆撃され死んだ。享年29歳。この2枚を自室に飾っていた妻は、「私は戦後ずっと、こうやって修さんの絵に見守られながら生きてきました」と語っていたという。

佐久間修『静子像』

佐久間修『裸婦』

5人がテーブルを囲む『家族』。作者の伊澤洋さんは栃木県の農家の出身で、家族全員が学費を工面して洋さんを東京の美術学校に入学させた。この絵を保存してきた兄は「うちは本当に貧しく、洋は心の中でいつもこういう風景を夢見ていて、それで描いたんだと思います」と述懐する。「伊澤家の代表選手のような男だった」洋さんは、ニューギニアで戦死した。享年26歳。

伊澤洋『家族』

生き残った元画学生が無言館の種をまいた

東京都出身の窪島誠一郎さんが無言館を作ったきっかけは、洋画家・野見山暁治さん(96)との出会いだった。野見山さんは1942年に東京美術学校を卒業し、直後に戦争に行ったものの、満州で病気になって途中で帰国した経歴を持つ。

野見山さんは戦後50年が間近に迫る94年2月、窪島さんが同じ上田市で開いていた美術館「信濃デッサン館」を訪ねた。それは、窪島さんがほれ込んで収集した大正から昭和の夭折(ようせつ)画家の素描を展示する美術館で、野見山さんは催しへの出席のためにやって来たのだった。

野見山さんはこの時、才能のある画学生の多くが戦争で亡くなったと窪島さんに語った。戦争で傷つき、飢えに苦しみながら死んでいった仲間のことを、生きて帰ってきた野見山さんは半世紀にわたって思い続けていた。

「窪島君は早くに亡くなった絵描きの絵が好きなんだろう。放っておくと(今話した)彼らの絵はこの地上からなくなるんだよ」

これを聞いた窪島さんは、野見山さんに絵の収集を手伝わせてほしいと願い出た。何もかも手探りで、美術学校の卒業者名簿などを頼りに遺族を探すことから始まり、全国の一軒一軒を訪ねるという地道な作業が予想された。それでも、絵を消滅させたくないという衝動に駆り立てられた。

第2展示館も合わせ無言館には静けさが漂う

ただ、その時に窪島さんの頭にあったのは絵の収集だけで、美術館建設など思いもせず、「信濃デッサン館の一角に、戦没画学生のコーナーでも設けるか」と考えていた。しかも、実際に集め始めると、絵の多くは「今の芸術大学だったら入れないだろうな、この絵(の作者)は」という程度だった。夭折画家たちの天才的な絵にほれ込み、買い集めて美術館まで運営するようになっていた窪島さんの目には、画学生の絵は、当然ながらレベルの低い絵にしか映らなかった。

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