
終わらないハンセン病元患者・家族の名誉回復
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高齢化する入所者:「忘れてほしくない」
全国に14ある国立、私立のハンセン病療養所で暮らす元患者は2016年5月1日現在、1584人。平均年齢が83歳を超え、介護が必要な人が増えている。全国ハンセン病療養所入所者協議会の15年の調査では、「認知症」が26.4%、「寝たきり」が8.7%、「食事の介助が必要」は26.9%(複数回答)に上った。
元患者は後遺症で目が不自由だったり、知覚まひを抱えていたりするケースもある。家族から縁を切られたり、社会の偏見・差別を恐れたりして療養所を「終の棲家(ついのすみか)」として暮らしている人が多く、穏やかな生活を守るためにも国による介護サービスの充実が求められている。
かつては全国で1万床前後あった国立療養所は、規模を大幅に縮小。中長期的な課題として、跡地利用の在り方をめぐる議論も出始めている。入所者からは「国の誤った強制隔離政策があったことを記憶にとどめ、人権について考える場所としてほしい」「自分たちが生き抜いた地を忘れてほしくない」などとして、全園の永久保存を求める声が上がっている。
多磨全生園で戦前の1928年から77年まで使われた、軽症独身男子が寝起きした「山吹舎」。2003年に修復保存された。
昭和初期(1920年代)の山吹舎の模様を再現した、国立ハンセン病資料館展示室のジオラマ。
1920年ごろの全生病院(多摩全生園の前身)の縮尺模型。患者地区と職員地区がはっきり分けられている=国立ハンセン病資料館
療養所で通貨の代わりに使われた「園内通用券」。患者の入所時、一般の通貨は強制的にこの特殊通貨に換えさせられた。(1953年に全ての療養所で廃止)=国立ハンセン病資料館
残された問題:家族の苦悩
20年たって、新たに表に出てきた問題もある。国の隔離政策でハンセン病に対する差別、偏見が助長され、家族の離散や苦しい生活を強いられたとして、今年2月から3月にかけ、元患者の家族568人が国に損害賠償と謝罪を求めて熊本地裁に提訴した。家族の被害をめぐる集団訴訟は初めて。民法が規定する損害賠償請求権が消滅する直前でのアクションだった。
原告らはハンセン病の診断を受けた親が療養所に収容されたことでいわれなき差別にさらされ、学校や就職、結婚など、人生のあらゆる場面で苦しみを受けたと訴えている。根深い差別と偏見を恐れ、原告の多くは実名を公表できないでいるという。
元患者本人に対しては、国の強制隔離政策は憲法違反だったとして国に賠償責任を認める判決が2001年に確定し、補償金が支払われている。しかし、家族は救済の対象になっていない。
ハンセン病に対する差別が残した禍根はいまだ消えていない。
ハンセン病と隔離政策
らい菌によって神経が侵されるハンセン病は、顔や手足が変形する後遺症が出ることから偏見・差別の対象になった。日本では1907年に国が患者の隔離を開始。特効薬が開発され、世界の潮流が外来医療推進に方針転換した後も、「らい予防法」廃止の96年まで隔離政策が続いた。都道府県が主体となり、官民一体で患者を探し出し、療養所に強制収容する「無らい県運動」もあった。療養所での入所者は園名(偽名・仮名)の使用や断種、堕胎の手術を強いられたり、家族とのつながりが絶たれたりした。患者だけでなく、その家族・親族も地域社会から差別を受けた。
文と写真=石井 雅仁(ニッポンドットコム編集部)
バナー写真=人権学習で国立療養所・多磨全生園の納骨堂を訪れる小学生。開園以来4000人以上の入所者が亡くなったが、多くは家族の墓に入れないままここに眠っている