日本で見つけたイスラムの世界

戦前の日本におけるイスラム交流

社会 文化

日本を訪れる東南アジア諸国などからのムスリム観光客の増加にともない、礼拝所の設置やイスラムの戒律に則ったハラールへの対応が広がり始めている。イスラムに対する理解の一助として、本稿では、日本を訪れたり住んでいた外国人ムスリムや、日本人ムスリムの手になる記録を通じて、戦前の日本へのイスラム伝来とラマダンについて振りかえる。

ラマダンは太陰暦「9月」の意味

ヒジュラ暦(※1)の9月にあたるラマダン月は、イスラムの五行(※2)の一つである断食の行を行う月だ。

日本の旧暦9月には「長月」という美しい名がついているように、「ラマダン」は太陰暦の9月を指す名称だが、どうやら日本人にとっては、「ラマダン」という単語はイコール断食になったようだ。正確には、アラビア語で「断食」は「サウム」という。

第二次世界大戦前の日本におけるイスラムやラマダンへの関心は、現在、一般の人たちがメディアを通じて見聞したラマダン月の状況とは異なっている。今は、テレビで月観測会(※3)やイード・アルフィトル(断食明け祭)の様子が放送され、日本国内で行われる官民双方のラマダン・イベントの模様が報じられている。在京のイスラム諸国大使館は、日中の断食後に最初に食べる食事であるイフタールの会を催し、日本の政府高官も出席する。

本稿では、日本を訪問したり在住していた外国人ムスリムや、日本人ムスリムによる記録などを通じて、戦前の日本へのイスラム伝来とラマダンについて振りかえってみる。

イスラムとの出会い——オスマントルコ「エルトゥールル号」沈没事件

戦前の日本で、イスラムはどの程度知られていただろうか。一説には、日本・イスラム関係のはじまりは、西洋の宗教思想学の書物の一冊、『預言者伝』が邦訳された1877年に遡ると言われる。

しかし、イスラムとの初期の交流としてよく知られているのは、スルタン・アブドルハミド二世治世下のオスマントルコ帝国との関係、そしてトルコから派遣されたエルトゥールル号が1890年6月7日に横浜港へ到着し、帰途、事故に遭って損壊し、多くの乗員が死亡したエピソードだ。

エルトゥールル号の沈没事故は、日本人の間にオスマン帝国とイスラムに対する深い同情の念を引き起こした。それは当時の国内の報道振りに明らかである。日刊紙『時事新報』は犠牲者の家族支援のためのキャンペーンを行い、野田正太郎と山田寅次郎の2人が義捐金を届けるためにトルコへ向かった。

この2人こそがイスラムに帰依した最初の日本人だと言われているが、両名が断食や巡礼の義務について語った記録は見つかっていない。最初に巡礼の義務を果たした日本人ムスリムは山岡光太郎で、1912年に出版された巡礼記によれば、巡礼後も日々の生活でイスラムの規範を守り過ごしたという。

日本を訪れた20世紀初頭のムスリム

イスラムおよびイスラム世界に対する日本の関心は、文化や宗教への関心と結びついていたが、第一義的には政治的な関心であったことは周知のことだ。数名の日本人研究者と貴族により『宗教家懇談会』が設立され、1906年4月に宗教信仰研究会議が開催された。

京都のインド人ムスリムの家族(写真:筆者提供)

同会議には、アハマド・アリー・アルジャルジャーウィー師(エジプト人のイスラム法学者)を含むムスリムの学者が出席した。彼の日本旅行記によれば、日本には32日間滞在し、京都や大阪を訪れ、京都では貿易を生業としていたインド人ムスリムと出会ったという。また、日本人に対してイスラムの「断食の行」について説明をしたこと、そして真偽は定かでないが、「約12000人が彼によって改宗した」ことが記されている。

ほぼ同時期に、他にも何人かのムスリムが日本を訪れている。医師のハッジ・ムハンマド・フセイン・アルヒンディーは『1907年、日本』という題の日本旅行回想録をウルドゥー語で著した。また、1909年1月27日には、著名な学者で宗教伝道師のアブドルラシード・イブラヒーム(タタール人)が日本船「宝山丸」に乗って来日したとの記録がある。

同年、マウルーイ・ムハンマド・バラカトッラー・バフバーリーも来日し、アブドルラシード・イブラヒームおよび日本在住のエジプト人退役将校アハマド・ファドリーと協力して、多くの日本人の参加を得てイスラム伝道活動を行った。さらに、バラカトッラーとアハマド・ファドリーの協力により、1910年4月に雑誌『イスラムの同胞』が発行された。

また、日本人ムスリムの新聞記者ハサン秦野は1912年に雑誌『イスラム』を日本語と英語で出版し、1918年には『イスラムの同胞』誌を英語で発行した。

(※1) ^ イスラム暦とも。太陰暦のため、西暦より1年に11日ほど短い。

(※2) ^ イスラム教徒の宗教上の5つの義務である礼拝、喜捨、断食、巡礼、信仰告白。

(※3) ^ ラマダン月29日の日没後、複数名が月を目視できたと確認された場合、翌日からシャッワール月(10月)が始まる。目視できない場合はラマダン月30日となる。

外国人ムスリム・コミュニティーの形成とモスク開所

20世紀初頭に日本を訪れたムスリムの残した記録や、発行されたイスラム関係の雑誌には、ラマダン月や断食についての言及はない。ラマダン月の催しは、ムスリムのコミュニティーが存在し、そのメンバーが共に祝う準備をする必要がある。しかし、おそらく、日本には外国人ムスリムのコミュニティーがまだなかったことが、その主たる理由だろう。しかも、ごく少数のイスラムに関心を持った日本人は高齢者が多く、イスラム思想やイスラム法ではなく、イスラムの輝かしい歴史的な側面にひきつけられた者が多かったからではないだろうか。

しかし、インドやタタールスタンなどの地域からムスリムが日本へやってくるようになると、外国人のムスリム・コミュニティーが形成されていった。

神戸に出来たインド人ムスリムのコミュニティーは、神戸モスクの建設に尽力した。一方、タタール人は、日本政府の許可を得て1920年にロシア、中国や韓国から約600人が移住してきた。1928年10月に、アブドルハイイ・クルバン・アリーの指導の下、日本のムスリム代表者会議が開催され、それに先立つ1927年には東京に最初の日本・イスラム学校が開校している。学校は神戸や名古屋にも開校され、1931年には学校や印刷所を含むタタール・イスラミック・センターが設立された。文献によれば、1932年に日本と韓国へ到着したタタールからのムスリム移民の数は3千人以上に及んだという。

在日外国人ムスリム・コミュニティーのメンバーが増えていくとともに、モスク開所の必要性も高まった。

こうして、1934年11月に神戸モスクの礎石が置かれた。翌1935年8月2日には最初の礼拝が執り行われ、開所式典が盛大に開催された。大阪毎日新聞は1935年10月11日付紙面で、モスクに関する特集を組み、他紙もモスクの写真を多数掲載した。1938年、預言者ムハンマド生誕日にあわせて執り行われた東京ジャーミィの開所式典についても同様に新聞などで報じられた。

日本人ムスリムが著した書籍に見るラマダン

戦前、イスラムに改宗した数名の日本人が、イスラムを紹介する書物を著している。

鈴木剛著『メッカ巡禮記』の表紙(写真:筆者提供)

3度の巡礼を果たした鈴木剛は、巡礼についての論文『ラマザンの断食』を著し、1938年11月1日発行の回教圏攷究所機関紙『回教圏』に掲載された。また、著書『メッカ巡禮記』の序文では、一段落を断食とラマダンに関する記述に割いている。

また、大久保幸次は1942年6月1日に『南洋経済研究』誌に『回教の断食』という題の論文を発表した。

ヌール・ムハンマド田中逸平は、日本におけるイスラム研究の真の先駆者といえる。日本語で複数の書物を著し、そのうちの何冊かはアラビア語へ翻訳されているが、彼は自身の経験に基づき、ラマダン月について次のように書いている。

「ラマダンの断食は、全てのムスリムとムスリマの義務である。・・・ムスリムは食物と飲み物を絶ち、断食中には配偶者と関係を持たず、飲食に対する欲望を感じない。」

「祝福を受けた月であるラマダンに、聖典クルアーンは下された。ラマダン月には、イスラムの教えをあまり重視しない人々も、断食の行を遵守する。この月には信仰心が増し、タラーウィーフの礼拝中に聖典クルアーンを通読しようと願うのである。人々は信仰心を高めることで罪から清められると感じる。」

「特にラマダン月の最後の10日間には、ライラ・アルカドルという日があり、人々はアッラーに許しを乞い、状況を正してくださるよう願うのである。そして、ムスリムはラマダン月が過ぎると喜びと幸福を感じ、断食の辛さや困難を全て忘れる。」

また、論文『巡礼とムスリムの生活』では次のように記述している。

「断食は、日々の仕事を行い、いつもどおりの生活を送りながら実施するものであって、家でくつろいだり眠っている人間が断食するわけではないのである。断食中の人が、仕事に励み、定められた礼拝を行うのは義務であり、ラマダン月に多くの礼拝をすることが推奨される。故に、断食の行は高齢者や弱者にとっては困難が伴うのである。」

断食明けには楽しいパーティー

今日、日本各地には多くのモスクが点在しており、ラマダン月の夜には、各モスクの責任者が礼拝はもちろんのこと、イフタールの会や講和の会などを熱心に開催している。

2014年7月9日に同志社大学で開催されたイフタール会の様子(写真:筆者提供)

そして、断食の終わりを告げる月の出が観測されると、ムスリム達は、あちこちのモスクで断食明け祭のパーティーを開くのである。そこには、ムスリムだけでなく、中東諸国の文化やイスラム文明・文化に関心を持つ非ムスリムも集まり、共に祝う。

このように、ラマダン月は、日本にイスラムが根付いていることを感じられる象徴的な1ヵ月となったのである。

2014年7月9日に同志社大学で開催されたイフタール会の様子。京都在住のムスリムの学生および教授のためばかりでなく、日本人にイスラム文化を紹介する目的で開催された(写真:筆者提供)

(原文アラビア語。タイトル写真=神戸モスク外観)

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