シンポジウムリポート

宮崎駿監督「おろそかに生きてはいけない」——ハンセン病元患者から学んだこと

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宮崎駿監督が国際会議「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」で講演し、長年にわたるハンセン病元患者たちとの交流と、『もののけ姫』の中で「ハンセン病患者らしき人々」を描いた背景について語った。

「過去の病」として失われつつあるハンセン病の歴史

講演では、宮崎監督と親交の深い入所者自治会長の佐川修さん(84歳)、同じく入所者の平沢保治さん(88歳)も登壇し、全生園に対する監督のさまざまな支援を語った。

佐川さん、平沢さんを含め、全生園の入所者は高齢化しており、平均年齢は84歳を上回る。最大1500人以上だった入所者数も、190人余りに減っている。1907年に定められた「らい予防法」の前身の法律により、ハンセン病患者は故郷や家族、友人から強制的に引き離され、隔離された。ようやく「らい予防法」が廃止されたのは1996年のことだ。現在ハンセン病は「過去の病」となりつつあり、ハンセン病元患者の人々が生きた歴史、偏見と差別との闘い、その記憶の集積が、すべて失われてしまいかねない。

全生園の35万平方メートルの広大な園内には、入所者が植樹した森がある。「人権の森」構想は、園内の古い建物、そして広大な森を後世に残すことで、人権について学び考えるための人類遺産として残すというものだ。男性独身寮だった「山吹舎」は、宮崎監督の寄付および多くの人たちの募金により、2003年に復元している。

苦しみに負けずに生きた人たちの記念碑、緑の中で子どもたちが育つ場所

講演後、記者会見での質問に答えて、宮崎監督は『もののけ姫』でハンセン病患者らしき人々を描いたことに、再度言及した。映画では「タタラ場」と呼ばれる製鉄所で包帯姿の人たちの働く様子が描かれているが、主人公の少年アシタカの運命が、ハンセン病を病みながら生き抜くことの象徴的な意味合いもはらんでいる。

講演後の記者会見で。

アシタカは村に突然現れた「タタリ神」と闘い、腕に呪いのあざをつけられる。そのあざは超人的な力を彼に与えると同時に、その命をむしばんでいく。「非合理なものを抱え込まざるを得ない運命」は、ハンセン病を抱えて生きていく人々の運命とも重なる。完全には消えないあざと共に、アシタカはタタラ場で生きていく。

2012年、全生園内には花さき保育園が開園、全生園の入所者との交流も行われている。「できるだけいい環境で子どもたちが育つ場所」として今後も全生園敷地の自然を活用してほしいというのが、宮崎監督の願いだ。講演では、「生きるということの苦しさとそれに負けずに生きた人の記念碑」として、全生園を保存したいと述べた監督は、あらためて力強く語った。「最後の患者さんが亡くなった後も、東村山市にとって大事な緑地として、『人権の森』も含めたいろいろな場所として使われることに意味があるのです」。

(1月28日の講演を基にニッポンドットコム編集部が構成/撮影:大谷 清英)

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