昔も今も家業で地域文化に貢献する栗菓子屋―小布施堂
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江戸時代に花開いた「小布施文化」
人口1万2000人。小布施町は千曲川に流れ込む松川の扇状地に形成された集落。長野県内でも最も小さな町だ。江戸時代初期には毎月6回、3と8のつく日には“市”が立ち、菜種油や穀類、塩などの取引でにぎわった。
江戸後期には千曲川を利用した舟輸送が始まり、北信濃の商業交易の中心として栄えた。豪農や豪商が生まれ、蓄積された富や経済力を背景に、浮世絵師の葛飾北斎や俳諧師の小林一茶ら多数の文人墨客を招くなど、独自の「小布施文化」が花開いた。
しかし、繁栄を続けた小布施も1888年(明治21)に千曲川対岸に鉄道(信越本線)が開通し、人や物資の流れが変わったことで衰退に転じる。その後の地域経済を支えたのは養蚕であり、現在はリンゴやブドウなどの果樹栽培だ。
戦後は苦境、文化も風化
町が苦境に陥ったのは1960年代の高度経済成長時代。
小布施の若者も地元を去り、大都市に流出した。長い歴史の中で育まれた文化は風化、町づくりの目標を失い小布施は漂流していく。
転機は、1969年に小布施堂の先代・市村郁夫氏(故人)が社長をしながら町長に就任。建築家・宮本忠長氏と二人三脚で「多様性に富み、活力に満ちて、自立したまちづくり」に着手したことで訪れる。
郁夫氏は、10年間の町長在任中は家業を二の次にして、何事も町の将来を優先した。歴史を心で感じる町づくりに取り組む一方、北斎の肉筆画を展示する「北斎館」を76年にオープンさせた。これが小布施を文化色の濃い観光地に押し上げていく。
「小布施栗」から生まれた「栗らくがん」
小布施と聞いてまず頭に浮かぶのはやはり「栗」だ。一説では、室町時代中期の1367年に京都・丹波国(現南丹市)から移り住んだ豪族・荻野常倫氏の植えた「丹波栗」が小布施の酸性土壌に適し、品質が良くておいしいと評判になり、松代藩が毎年秋には将軍家に献上するほどになったという。「小布施栗」の名前は広く天下に鳴り響いた。
この小布施栗から最初に生まれた菓子が「栗らくがん」である。栗を粉に引いて、それを木型に詰めて押し固め、型から抜いて乾燥させて作る。考案したのは町一番の老舗・桜井甘精堂の初代で、1808年(文化5)だった。これが小布施栗菓子の始まりだ。
1819年(文政2)には混じり気のない「栗ようかん」が作られ、1892年(明治25)には栗の蜜漬けを栗あんの中に入れた「栗かのこ」も誕生した。栗菓子は明治時代には、缶詰にすることで通年商品となっていった。
新宿と上野のデパートに「生菓子」投入
もともとの小布施堂は塩問屋、茶問屋、菜種油、酒造業、薬屋などを手広く営む商家。中核が江戸中期の1755年(宝暦5)に創業された桝一市村酒造場だった。
その桝一が明治30年代(1897-1906)に栗菓子製造に乗り出す。当時の缶詰技術と酒屋としての工場制生産方式を導入して「栗かのこ」を作った。これが小布施堂(1923年株式会社設立)の前身となる。
昔は味噌や醤油の醸造も手掛けたが、「今も残っているのは酒造業と栗菓子製造業の2つだけ」と小布施堂と桝一の社長を兼務する市村家17代当主の次夫氏は言う。売り上げ規模は、栗菓子と酒で10対1。主力は完全に栗菓子に移った。
市村氏がずっと考えていたのは本来の「菓子屋」への回帰だ。「栗菓子はずっと工業化を目指してきた商品。早い話が“工業製品”なんです。東京のデパートなどにも量産型の日持ちする商品を出して置いてもらった。しかし、小布施に観光客が来始めたころから、やはり目指すべきは菓子屋ではないかと思うようになった。工業製品のような分業ではなく、原料の選別から焼いたり砂糖を混ぜたり、場合によって売るのまで一人でやる。それが菓子屋の原点。そこに戻る必要がある」。
そうした思いを形にしたのが東京・伊勢丹新宿店への出店だ。三越などにも出しているが、生栗菓子は取り扱っていない。しかし、昨年9月に初出店した伊勢丹新宿店には「菓子屋として出た。生栗菓子も販売している」(市村社長)。栗を使った生菓子を多数投入し、とらや、仙太郎など和菓子屋名店と肩を並べる。今年2月には松坂屋上野店もリニューアルオープンし、生菓子を並べた。
北斎を招いた“旦那文化”
小布施は「富嶽三十六景」で世界的に名高い北斎が愛した町でもある。北斎は1842年秋から1848年まで4度も同地を訪れている。83歳から89歳までの最晩年だ。招いたのは小布施の豪商・高井鴻山(市村家12代当主・市村三九郎)だった。
若くして京都や江戸で学んだ鴻山と北斎の関係は「先生と旦那」。旦那(鴻山)は資金だけでなく、感性や教養も先生(北斎)に提供し、2人は信頼関係を築く。北斎は小布施滞在中に日課として「日新除魔」と題した獅子図や獅子舞図を描いたほか、2台の祭り屋台にも2枚の天井絵を残した。
驚嘆すべきなのは戦国武将・福島正則の菩提寺でもある曹洞宗・岩松院(がんしょういん)本堂の天井に描かれた「八方睨み鳳凰図」。90歳で亡くなる前年に北斎が描いたたたみ21畳の大作。中国から輸入した岩絵具を用い、これまで一度も塗り替えは行われていない。166年たった今も実に色鮮やかだ。
鴻山は小布施の黄金時代の代表的人物。15歳から25歳にかけて京都で儒学や漢詩、国学、和歌、書道、絵画、陽明学を学び、28歳になると今度は江戸に出て蘭学、俳諧も修める。31歳で小布施に戻ってからは佐久間象山など名だたる思想家と交流。松代藩主や飯山藩主がしばしば彼の家を訪ねたという。鴻山の事業は陽明学の教えに従い、自らの信じる知識や良心に基づいて実践し、世の中を収めて人民の苦しみを救い導こうとするものだった。社会福祉事業家そのものだ。市村家のこれが家風とも言える。
景観を修復する「修景事業」
小布施堂がユニークなのは町づくりにも深くかかわっていることだ。古民家や町並みの再生を中心とした「修景事業」がそれだ。
東京理科大学教授で小布施町まちづくり研究所所長の川向正人氏は著書の中で、「修景」について、「伝統的な町並みに固執しすぎない。とはいえ、町の歴史を全く無視した再開発でもない。今あるもの、そこに暮らす人々の思いを大切にしながら、少しずつ景観を修復して、町を作っていく」と書いている。
景観を整えるために、ときには建物を曳(ひ)いて移動したり、解体して移築、さらには新築もする。家の向きや高さなどを変えることもある。変更・修正が何度でも行われるのが修景だ。建物の配置、形態、向き、高さなどを歴史上のある状態に復原保存し、その後は変更されることのない「町並み保存」と決定的に違う点だ。
80年に郁夫氏の跡を継いだ次夫氏は自邸の土地を「笹の広場」として一般に開放。竹風堂、桜井甘精堂などの同業者も周辺整備に協力した。さらに次夫氏ら地権者が時間をかけて話し合い、行政に頼らない形で、修景地区を誕生させた。
車で小布施の町に入ると、日本の多くの町に見られる大きな広告板やネオンサインの満ちた雑然とした風景は消え、景観が一変する。中心部だけでなく、手入れの行き届いた果樹園なども、美しい景観が保たれている。今では年間120万人の観光客が訪れるのは修景の生み出す「気持ちのよい空間」に引き付けられるためかもしれない。
経営は「大玉送り」、先祖からの預かり物
小布施堂は1984年、社内に文化事業部を立ち上げ、サロンコンサートや現代彫刻展「小布施系」、「国際北斎会議」などを開催。2003年からは「小布施見にマラソン」を主催するなど地域文化の活性化にも大きく貢献してきた。
市村社長は、「日本の企業にはどうも社会福祉事業的な面があるんですよ。営利事業をエンジンとするけれども、福祉的なことも考えていかなければいけない。日本社会の中にはそういうパブリックな意識が連綿と続いているのではないか。民間には行政とは違った別の役割がある」と語る。
小布施堂の歴史や伝統については、「運動会の大玉送りのようなものだと思っている。大きなはりこの大玉を全校生徒で動かす。主役は人間ではなくて、大玉だ。私どもはこの大玉を預かっているだけ」と話す。
「何のために店を続けているのか。あそこに店があると明るくなるし、楽しいと思われたいからだ。一番望ましいのは東京と大阪に住む2人が小布施で偶然行き会って、小布施というシチュエーションの中でしか生まれない会話が成立すること。小布施ならそういうことが起こり得る。そんなお手伝いを店としてしていけたらすばらしい」。これが市村氏の描く目指すべき小布施堂の姿のようである。
株式会社小布施堂
〒381-0293 長野県上高井郡小布施町808
代表者:市村次夫
事業内容:菓子製造販売/飲食業/宿泊業/修景事業
資本金:2,000万円
従業員:100名
Tel:(026)247-2027
ウェブサイト:http://www.obusedo.com
株式会社桝一市村酒造場
〒381‐0294 長野県上高井郡小布施町807
代表者:市村次夫
事業内容:日本酒の製造販売
資本金:2,800万円
従業員:10名(季節雇用含む)
Tel:(026)247-2011
ウェブサイト:http://www.masuichi.com
取材・文=長澤 孝昭(ジャーナリスト/一般財団法人ニッポンドットコム・シニアエディター) バナー画像=小布施堂提供