冷戦後日本外交の軌跡

日米同盟再定義

政治・外交

山口 昇 【Profile】

1990年代、冷戦終焉でソ連という共通の敵を失い、「同盟に意味があるのか?」という疑問に直面した日米両国。ポスト冷戦期の安全保障戦略を模索する中で、日米同盟をどのように再定義していったのだろうか。

新「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)

旧「ガイドライン」は、坂田道太防衛庁長官とジェームズ・シュレジンジャー国防長官のリーダーシップの下で開始された協議の成果として、1978年に日米安全保障協議委員会(SCC)において承認された。(※13) この文書は、日米安保体制のより円滑かつ効果的な運用を狙いとして自衛隊と米軍の役割分担や具体的な協力内容を示したものであり、特に1970年代から1980年代にかけて運用面での協力態勢を強化する上で大きな役割を果たした。しかしながら、旧「ガイドライン」は冷戦期における戦略環境に対応するための構想であり、冷戦終焉後大きく変化した戦略環境に適応するためには、その見直しが必要であった。4次にわたるケース検討などを経て策定された新「ガイドライン」は、1997年9月23日、日米両国の外務・防衛担当閣僚で構成される安全保障協議委員会(いわゆる「2+2」)に報告された。(※14) 新「ガイドライン」は、防衛分野における協力を3つの分野、すなわち、(1)平素から行う協力、(2)日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等および(3)日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力に区分した。

見直し作業の焦点は、周辺事態における協力をめぐる問題であった。「日米安保共同宣言」の中で、特にこの分野における政策調整を促進することの必要性が強調されたことを受けてのことである。新「ガイドライン」における周辺事態関連の記述は、日本に対する武力攻撃に関する記述量を上回っており、旧「ガイドライン」において、極東有事に関する記述が日本防衛に関する記述のわずか10分の1であったのと好対照をなしている。周辺事態における具体的な協力分野は3つのカテゴリーに区分され、40項目にわたる協力活動の例が列挙された。第1のカテゴリーは、両国政府が各々主体的に行う活動における協力であり、捜索・救難、非戦闘員を退避させるための活動などが例として挙げられた。日米両国がそれぞれの必要性から行う活動ではあるが、二国間の協力が望ましいと考えられるものである。第2のカテゴリーは、米軍の活動に対する日本の支援であり、米軍に対する補給、輸送、整備などの後方支援や米国に対する施設の提供が例示された。すなわち、米側の必要性を満たすために日本が行う支援である。第3のカテゴリーは、運用面における日米協力であり、海空域の使用調整や警戒・監視に関する情報交換などが列挙された。米軍および自衛隊がより円滑に行動できるようにするための協力である。(※15)

新「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)の要点

  • 防衛分野における協力を3つの分野に区分
    1. 平素から行う協力
    2. 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等
    3. 日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力
  • 周辺事態における協力をめぐる問題が見直しの焦点に
    →周辺事態関連の記述が、日本に対する武力攻撃に関する記述量を上回る
  • 周辺事態における具体的な協力分野は3つのカテゴリーに区分
    1. 両国政府が各々主体的に行う活動における協力
      • 救援活動及び避難民への対応のための措置
      • 捜索・救難
      • 非戦闘員を退避させるための活動
      • 経済制裁の実効性を確保するための活動(情報交換、船舶検査での協力など)
    2. 米軍の活動に対する日本の支援
      • 施設の使用
      • 後方地域支援(補給・輸送・整備など)
    3. 運用面における日米協力
      • 海空域の使用調整
      • 警戒・監視に関する情報交換

 

新「ガイドライン」が示した協力、特に周辺事態に関連する活動を日本が実行できるようにするためには立法上の措置が必要であった。これらの活動に関連する法案は、1998年4月国会に提出され、2000年11月までに周辺事態安全確保法、船舶検査法などの形で成立し、周辺事態において米国と協調・協力しつつ、後方地域支援、後方地域捜索救助活動および船舶検査活動を行うことができる法的枠組みが整えられた。ところで、新「ガイドライン」は、周辺事態と我が国に対する武力攻撃が同時に起こり得ることを指摘している。朝鮮半島で武力紛争が起き、我が国に対してもミサイルや特殊部隊による攻撃が行われるような場合である。日本自身の安全がおぼつかないようでは、米国に対する協力どころではないということを考えれば、我が国の防衛態勢を充実させることが肝要であり、また、その余地も大きかった。この点に関しても、いくつかの分野で進展がみられた。例えば、1990年代後半以降、弾道ミサイル防衛(BMD)に関する日米協力が加速した結果、2003年12月には、イージス・システム搭載護衛艦及び地対空誘導弾ペトリオットの能力向上(PAC-3)によるBMDシステムを整備することが決定された。また、2003年には、自衛隊にとって30年来の懸案であった有事関連法制の整備も進展した。

日本にとっての「日米同盟再定義」とその後

日本は、「日米同盟再定義」に先立ち国連平和維持活動などの国際的な平和協力活動に参加することを決めた。グローバルな意味合いで防衛力を使用するという決断である。1996年の「日米安保共同宣言」においては、このような分野を含めたグローバルな日米協力に加え、北東アジアにおける地域安全保障問題に関する協力やいわゆる周辺事態における協力を強化することを明らかにした。新「ガイドライン」策定の過程では、周辺事態に際する日米協力を掘り下げる一方、ミサイルや特殊部隊による攻撃のような新しいタイプの脅威から日本を防衛することを検討した。日本にとっては、地球的な規模での問題をはじめとして、地域安全保障に関する懸案から日本自身の防衛にいたるまで、日本が関わる安全保障上の問題すべてを網羅したといえる。

日本にとって「日米同盟再定義」の過程は、同盟を冷戦後の環境に適合させるための作業であると同時に、ポスト冷戦戦略を模索する過程そのものであったといえる。このように安全保障戦略の全体像を描き、米国と包括的な政策調整をするのは、20年ぶりのことであった。1976年に「防衛大綱」を定め、1978年に旧「ガイドライン」について米国と合意して以来である。その後、日本は2004年と2010年に「防衛大綱」を策定した。(※16) 2004年から2006年に行われた、いわゆる「米軍再編」に関する協議の中では、日米両国にとっての共通の戦略目標、それぞれが果たすべき役割・任務と保有すべき能力について議論を尽くした上で、普天間代替施設を含む在日米軍基地の変容について協議した。2011年6月に開催された「2+2」においては、あらためて日米共通の戦略目標を列挙し、その達成のために協力を強化すべき分野を明らかにした。(※17) これは、前年、2010年に米国と日本がそれぞれ策定した「4年ごとの国防計画の見直し(QDR)」(※18) と新たな「防衛大綱」(※19) を踏まえてのことであった。こうしてみると、「日米同盟再定義」のプロセスは、日米両国がそれぞれの安全保障政策を変化する国際環境に適合させていく際に、相互に政策を調整するためのひな型になったといえよう。高い緊張を伴っていたものの一種安定した構造の下にあった冷戦期に比べ、21世紀初頭の数十年間の情勢は、より流動的である。今後しばらくの間は、「日米同盟再定義」と同様のプロセスを繰り返すことが必要になりそうである。

 

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山口 昇YAMAGUCHI Noboru経歴・執筆一覧を見る

防衛大学校教授。タフツ大学フレッチャー法律外交大学院修士課程修了。在米日本大使館防衛駐在官、防衛省防衛研究所副所長、陸上自衛隊研究本部長などを経て、2009年から現職。

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