冷戦後日本外交の軌跡

外交の新たなアイデンティティを求めて

政治・外交 社会

1991年のソ連崩壊から20年。この間に起きた巨大な変化に目を向けると、浮かび上がってくるのは外交における新しいアイデンティティを模索する日本の姿だった……。冷戦後の日本外交を見つめ直す新シリーズがついにスタート。

経済から政治へ


クラスノヤルスク郊外での首脳会談を前に握手を交わす橋本龍太郎首相とエリツィン露大統領。

そもそも「吉田ドクトリン」が規定する外交路線は、経済成長を優先して、軽武装路線を維持することを基軸としていた。ところが冷戦後の日本外交はむしろ、外交地平を拡大して、よりいっそう政治問題や安全保障問題へ関与していくこととなる。たとえばそれは、1994年の朝鮮半島核危機の後の1995年3月に設立した KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)における積極的な関与や、1997年に橋本首相が提唱した、ロシアや中央アジア諸国との関係強化を視野に入れた「ユーラシア外交」において見ることが出来る。経済外交が中軸となっていたそれまでの日本外交が、より自覚的に地政学的・戦略的な思考をまとうようになったのだ。

また、1993年に開始したアフリカ開発援助のための、TICAD(アフリカ開発会議)は、他国に先駆けてアフリカ貧困問題に取り込むための継続的な行動を示した重要なイニシアティブであった。そして、2001年9月11日の同時多発テロの後には、小泉首相の下で日本は躊躇することなく、ブッシュ政権のアメリカが進める「対テロ戦争」を支持していった。アフリカや中東、中央アジアのような日本から離れた地域においても、より深い関与やより広範な国際協調が求められていた。それに対して日本は漸進的に関与を広げている。

このような、外交における経済重視から政治重視への動きや、グローバルなレベルでの外交地平の拡大は、「吉田ドクトリン」が本来想定していた思考を大きく越えたものであった。それは、冷戦後の国際情勢への日本政府の対応がもたらした変化であると同時に、世界で最高水準の経済的な豊かさを手に入れた日本が負うべき国際的責任でもあった。このようにして、冷戦後の日本外交の基軸は、経済外交からより政治的であり安全保障をも含んだものへと進化していった。

価値と外交


国会で外交方針を演説する麻生太郎外相。

21世紀になると、次第に国際政治において価値や理念といった問題がより大きな位置を占めるようになっていった。イギリスでは1997年に成立したブレア政権が「倫理的対外政策(ethical foreign policy)」や「善のための力(force for good)」を語るようになり、また2001年にアメリカで成立したブッシュ政権は、いわゆるネオコン(新保守主義者)たちが自由や民主主義を世界に普及するためのレジーム・チェンジ(体制転換)を論じるようになっていった。外交が、純粋に国益を追求し、力と力が衝突する時代から、自らの価値を語りそれを普及する時代へと変わっていった。

日本外交もまたそのような潮流に呼応するかのように、次第に自らの価値を語るようになっていった。例えば、 2006年11月30日の演説の中で、麻生太郎外相は「民主主義、自由、人権、法の支配、そして市場経済」といった「普遍的価値」について触れ、これらを「外交を進める上で大いに重視してまいります」と述べた。麻生外相は「価値の外交」と「自由と繁栄の弧」を日本外交の新機軸、いわば、「4つ目の柱」として提唱した。その演説の中で麻生外相は、「自由と民主主義、人権と法の支配の尊重を大切にする思いにかけて、人後に落ちぬわれわれであります」と論じた。このように、安倍晋三政権において日本外交は、価値を重視する方向へと大きくシフトしていった。

ところがそのような外交も、2007年9月に首相が安倍晋三から福田康夫へと交代することによって、大きく退潮した。福田外交は、小泉政権の下で靖国参拝問題をめぐり大きく傷ついていた日中関係を修復するためにも、アジア外交を外交の基軸として位置づけ、日米同盟とアジア外交の二つの車輪を「共鳴外交」として並べて論じていた。その際に、政治体制が異なり普遍的な価値の多くを共有しない中国と関係を深めるためには、「価値の外交」を抑制する必要があった。その後、2008 年9月に誕生した麻生太郎政権においても、かつて「自由と繁栄の弧」を語った麻生首相はこの外交理念を多用することなく、慎重で従来的な外交に専念した。「価値の外交」は必ずしも、外務省においても政権内においても幅広い支持を集めることは出来なかった。

とはいえ、日本は自由や民主主義といった価値を共有する諸国との関係強化を進め、またそれまでの同盟関係においても価値の共有を強調してきた。2006年6月、小泉首相とブッシュ米大統領との間の日米首脳会談では、「新世紀の日米同盟」と題する共同文書の中で、「日米両国は、共通の脅威に対処するのみならず、自由、人間の尊厳及び人権、民主主義、市場経済、法の支配といった中核となる普遍的価値観を共に促進していく」と論じ、「こうした価値観は、両国の長い歴史的伝統に深く根ざしたものである」と指摘している。また、2007年3月にはオーストラリアとの間で、「安全保障協力に関する日豪共同宣言」を発表し、やはりここでも「共通の価値と利益を反映する戦略的パートナーシップを継続的に発展させることにコミット」すると論じている。2006年以降、日米豪戦略対話を開始しており、アジア太平洋において普遍的価値を共有するアメリカ、オーストラリア、日本の3カ国間の協力促進を試みてきた。


マンモハン・シン印首相と会談する安倍晋三首相。

また、2010年12月には、ワシントンで日米韓3カ国外相会合を開き、北朝鮮による延坪島砲撃事件への対応を協議した。そこでは「民主主義や市場経済等の基本的価値を共有する日米韓3カ国が、地域及びグローバルな課題に緊密に取り組んでいくことを確認した」。また、2007年8月の安倍首相によるインド訪問は、中国が台頭する中で価値を共有する日本とインドが戦略的に提携する姿勢を明瞭に示すものとなった。そこでは安倍首相とマンモハン・シン印首相との間の共同声明が発表されて、自由や民主主義といった「普遍的価値を共有」していることを謳った。このように、過去5年ほどの間に、日本はアメリカ、オーストラリア、インド、韓国といったアジア太平洋において普遍的価値を共有する諸国との提携関係を強めていった。それは、中国が軍事的に台頭することへの、戦略バランスを考慮した対抗的な意味を持つものと見なされている。


国連総会で一般討論演説をする鳩山由紀夫首相。

他方で、2009年8月の総選挙で自民党が敗退し、9月に鳩山由紀夫を首班とする民主党政権が誕生すると、鳩山首相は「友愛」の理念を外交の基軸として語り、とりわけ「東アジア共同体」の確立を「友愛外交」の柱とした。鳩山首相は、「日本と価値観の異なる国に対して互いの立場を認め合いながら、共存共栄をしていく」ことを宣言し、「友愛外交」の精神に基づいた日中友好を外交の柱とした。欧州統合の父ともいわれる、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー卿の地域統合理念を模範として、東アジアに共同体を設立することを大きな目標に掲げる一方で、自由や民主主義といった価値観を共有するアメリカとの同盟関係は普天間基地移設問題をめぐって大きく損なわれていった。このような、日米同盟を軸とした、価値を共有するいわゆる「民主主義連合(the league of democracies)」のアプローチと、東アジアの地域協力を主眼とした日中関係を軸とするアプローチとの、2つの方針が過去10年の間に日本外交では混ざり合っていたといえる。

日本外交はどこにいくのか

冷戦後の20年間、日本は国連平和維持活動への関与を拡大し、日米同盟の強化に動き、そして東アジア地域協力の発展を試みてきた。それは、1957年の「日本外交三原則」それぞれを深化させる試みでもあった。政権や首相によりそれぞれどの側面を強化するかに違いは見られたが、それでもそのいずれもが必要であることは明白であった。

他方で、冷戦後に日本外交がいかなる自画像を描くのか、依然として国際的アイデンティティについて国民の間に大きな迷いが見られる。平和主義と国際協力、日米同盟と東アジア、価値外交と経済的利益と、いくつもの座標軸を同時に視野に入れて、総合的な外交戦略を組み立てねばならない。そのために、強い政治指導者が必要であることは明らかである。頻繁な首相や外相の交代によって、日本外交から一貫性が失われていった。それは日本の国際的信頼を失うことにも繋がる。

 本シリーズでは、過去20年間における日本外交の重要な局面に関して、その分野の第一人者の専門家や政策に関与した実務家が、回顧を行うことになるだろう。それを総合的に理解することによってはじめて、今後日本が進むべき道、そしてこれからの日本が抱くべき国際的アイデンティティが見えてくるのではないだろうか。

写真=時事通信社

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