
外交の新たなアイデンティティを求めて
政治・外交 社会- English
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2011年で、1991年のソ連崩壊から20年、そして2001年の同時多発テロから10年が経過したことになる。「対テロ戦争」という言葉もバラク・オバマ米大統領の下ではあまり語られなくなり、欧米の債務危機などで経済問題が政治の中心となっている。この20年で多くのことが変わっていった。冷戦時代はすでに、遠い過去となってしまった。
20年前にソ連邦が崩壊したとき、日本の総理大臣は宮澤喜一首相であった。この宮澤首相の後には細川護煕非自民連立政権が成立して、いわゆる「55年体制」としての自民党一党優位体制が崩れ、国内政治にも巨大な変動が訪れた。それから野田佳彦首相で、13人目の首相である。日本の首相がめまぐるしく変わり、国内の政局が激しく動揺し、日本経済が失速を続ける中で、国際情勢も大きく変わっていった。
そのような国際情勢の変化に、日本外交はどのように対応してきたのであろうか。日本外交の何が変わって、何が変わっていないのであろうか。このシリーズでは、湾岸戦争が勃発した1991年からその後の20年間の日本外交を、様々な角度から光をあてて検証し、概観することを目指す。すでにこの20年に多くの変化が訪れた。ここで立ち止まって、過去20年の巨大な変化に目を向けることで、今後の日本が歩むべき進路を深く考えることも必要であろう。そこに浮かび上がってくるのは、外交における新しいアイデンティティを模索する日本の姿である。
失われたアイデンティティ
アメリカの元国務長官ディーン・アチソンは、1962年12月の演説の中で、イギリス外交の迷走を揶揄して次のように述べた。「イギリスは帝国を失い、いまだ新しい役割を見いだすにいたっていない」。同じように冷戦後の日本も、自らの国際的なアイデンティティを見失っている。おそらく、冷戦後の日本外交を回顧して次のように述べることが出来るのではないか。すなわち、日本は経済大国という地位を失い、いまだ新しい役割を見いだすにいたっていない。
2010年に、日本はそれまで40年以上守ってきた「世界第二の経済大国」という地位を中国に譲った。中国が、国連安保理常任理事国であり、核兵器を保有する軍事大国であり、中華帝国の歴史を有するアジアでの圧倒的な存在である。それに対して、憲法九条や戦争責任を通じた安全保障政策上の制約からも、日本国民の多くはこれまでは「経済大国」という地位に慣れ親しみ、経済力を通じて国際的な影響力を行使しようとしてきた。したがって、そのような経済力が後退することで、日本の国際的な影響力が減退することはいわば自明の理でもあった。
それではどうしたらよいのだろうか。冷戦が終結し、バブル経済が崩壊し、長い経済的な低迷のトンネルに入った日本は、外交におけるアイデンティティを自問し続けてきたといえる。はたして日本は国際社会の中で、どのようなアイデンティティを擁するべきか。それまでは、経済成長を重視して軽武装路線をとり、日米関係を主軸とするいわゆる「吉田ドクトリン」が日本外交の中核に位置づけられてきた。90年代半ばに経済的失速を経験し、また1995年9月に沖縄少女暴行事件で日米関係が動揺すると、それまで自明とされてきた「吉田ドクトリン」をめぐり、多様な議論がなされるようになってきた。そこには、対米依存を批判してアジア外交強化をも求める声もあれば、ナショナリズムに訴えて軍事大国化を求める議論も見られた。いわば、日本外交は冷戦後に進むべき方向を見失っていたといえる。「吉田ドクトリン」の有効性に疑問が投げかけられ、戦後日本が自明としてきた基盤が揺れ動きつつあった。
国連・アジア・アメリカ
戦後外交の歴史を振り返ると、日本外交のアイデンティティがそもそも「吉田ドクトリン」が規定したものよりも広いものであったことが理解できる。 1957年9月に発表された『わが外交の近況』、いわゆる「外交青書」では、「国際連合中心」、「自由主義諸国との協調」、そして「アジアの一員としての立場の堅持」の3つを「日本外交の三原則」としている。これは戦前の国際主義、対英米協調、アジア主義という3つの系譜を部分的に受け継ぐものであると同時に、国際法局、北米局、アジア太平洋局という外務省内の主要な三つの部局の意向を反映した路線ともいえるものであった。「国連」、「日米同盟」、「アジア」こそが、戦後日本外交における「3つのサークル」であり、日本外交は長い間この3つの路線を整合させることに大きな努力を払ってきたといえる。
この「三原則」はまた、1957年に「外交青書」が発表された当時の時代背景を反映したものでもあった。1956年12月に日本は国連加盟を実現し、また前年にはアジア・アフリカ会議、いわゆるバンドン会議に参加することでアジア復帰の実現をアピールした。さらにはこの年に重光葵外相が訪米して、安保改定交渉が動き始めた。1952年に主権を回復して独立を達成した日本外交は、50年代半ばには単なる対米協調を越えた広がりを持ちつつあった。吉田茂が 1954年に首相の座を退いた後に、後継の政治指導者たちは日本外交の地平を拡大する努力を行って、それが「日本外交の三原則」に結実したともいえる。いうならば、戦後日本の外交アイデンティティは「吉田ドクトリン」と「日本外交の三原則」の2つによって示されてきたのだ。
冷戦終結後に、これらの「三原則」それぞれをめぐり、日本は新しい対応を迫られた。まず国連について、日本はグローバルな安全保障問題へのより積極的な関与が必要となった。 1991年1月に始まった湾岸戦争では、総額130億ドルの経済支援を行ってもなお十分な人的貢献が足りないとの国際的批判を受け、日本の政治家や外務官僚たちは大きな衝撃を受けた。冷戦後の世界において、日本はよりいっそう国際安全保障への貢献が必要となった。それは、湾岸戦争終結直後の機雷除去のためのペルシャ湾岸への海上自衛隊掃海部隊の派遣や、1992年のカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣へとつながっていく。だが、依然として日本のPKOへの関与は先進国の中でも最低水準となっている。「国連中心主義」という高邁な理想に反して、日本の国連への貢献は比較的大きな割合の拠出金を除けば、政府開発援助のGDP比にしても、PKOへ参加する人数にしても、日本の国際協力への関与の度合いから見ると限られたものであった。
それでは、アジア外交についてはどうであろう。冷戦後、「三原則」の中で最もその存在感が大きくなったのが、アジア外交であった。1990 年代前半のNIEs(新興工業経済地域)やASEAN(東南アジア諸国連合)、そして21世紀に入ってからの中国やインドなどの急速な経済成長は、日本経済に新たな機会をもたらし、それと並行してそれらの諸国や地域への外交の重要性が増していった。1993年のシアトルでの第1回APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議はアジア太平洋時代の幕開けを告げるかのように大きな注目を集め、さらに1997年のアジア金融危機後には「ASEAN+3」としての東アジア地域協力が急速に発展していった。2002年1月の小泉純一郎首相のシンガポールでの演説では、「共に歩み共に進むコミュニティ」を東アジアに創る日本政府の強い意向が示すものと見なされ、これが2005年に始まる「東アジアサミット」へとつながっていく。
しかしながら、中国の急速な台頭は日本外交に新しい不安をもたらしている。中国の急速な経済成長は、他国を懸念させるような急速な軍事的膨張と結びつき、東シナ海や南シナ海において周辺国との緊張を高めている。また、小泉政権時の靖国参拝をめぐる中国や韓国との軋轢は、依然としてこの地域において歴史認識や歴史的記憶をめぐって大きな断絶があることを明らかにした。日本がアジア外交を進めていく上で、経済の論理のみならず、このような歴史認識や、領土問題、勢力均衡といった困難な問題をも考慮に入れなければならなくなっている。それが、これら東アジア諸国におけるナショナリズムや排外的世論の醸成と結びつくがゆえに、地域的安定を難しくしている。日本外交は、東アジアの地域協力を促進していくと同時に、これらの困難な問題を直視して、その解決へ向けた努力を続けていかねばなるまい。
それでは、日米同盟はどうであろう。冷戦終結後の20年で、アメリカとの関係はどのように発展してきたのだろうか。日米同盟もまた、冷戦後に大きく進化してきた。クリントン政権下での日米経済摩擦が同盟関係を衰退させる懸念からも、米国防次官補であったジョセフ・ナイのイニシアティブによって、日米同盟再定義へと進んでいった。1996年の橋本龍太郎首相とクリントン米大統領の間での日米共同宣言では、冷戦後の世界においても引き続き日米同盟を強化していく方針が確認された。それだけではなく、日米同盟がアジア太平洋における公共財と見なされ、より広域的な国際安全保障においても同盟を活用する方針が示された。次第に、日米間で新ガイドラインが合意され、日本がよりいっそう安全保障問題に関与する姿勢が確認された。日本は安全保障政策において、より積極的な道を歩み始めたのだ。
このように、日本は一方で冷戦後の国際的アイデンティティを見失いながら、同時に「三原則」のそれぞれにおいて新しい国際環境に適合するための努力を続けてきたのだ。