「四つの口」と長崎貿易――近世日本の国際関係再考のために――
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はじめに――課題の設定――
本稿で私に与えられた役割は、「四つの口」と「長崎貿易」という2つの切り口から、近世日本の国際関係の概略を示すことだ。「長崎貿易」についてはそれなりに知られているが、「四つの口」という言葉には、なじみのない方が多いかもしれない。「近世」という時代区分がおおむね江戸時代のことを指し、ごく最近までは、江戸時代の日本を「鎖国」と考えるのは、日本人のみならず、多少なりとも日本の歴史を知っている外国人にとってもいわば常識だった。その常識からすれば、先に掲げた近世日本の国際関係という表現自体が、形容矛盾以外の何ものでもないだろう。しかし、ここ20–30年の間に近世日本の「国際関係」の実態についての研究は大きく進んで、ほとんど面目を一新した。近世の日本が「四つの口」という限られた「場」を通してではあれ、周辺の地域を通して地球的世界とゆるやかにつながりながら発展を維持して、近代(幕末維新期)を迎えたこともほぼ常識になりつつある。
「四つの口」という概念は、伝統的な「鎖国」観の閉ざされたイメージを是正するために、30年余り前に私が提起したものだが、今では歴史の教科書にごく普通に登場する用語の1つになっている。そして、「四つの口」が前提になってくると、「鎖国」として語られてきた近世の国際関係の実態や、いわゆる「鎖国」のもとで海外に向けて開かれていた唯一の窓口とされてきた長崎についても、その実態や言説も含めて、改めて見直すことが必要になってくる。私がここ35年近く続けてきたのは、「四つの口」を前提とした近世国際関係史の脱構築の作業だった。1983年に従来の「鎖国」概念に代えて、「海禁・華夷秩序」の対概念を、さらに最近では「鎖国・開国」言説論を提唱しているのも、その一環である。
本稿では、それらの議論に深入りはせず、まず「四つの口」における国際関係の全体像を示し、次に、「長崎貿易」で、長崎とそこで営まれていた貿易の概略とその変遷について述べる。なお、実態としては国を鎖(とざ)した史実はなかったにもかかわらず、長く「鎖国」として語られてきたことの歴史的意味、すなわち近代日本人のアイデンティティとしての「鎖国・開国」言説については、別に機会が与えられれば述べることにしたい。
「四つの口」の国際関係――近世日本国家の中華秩序からの自立を中心に――
そのために、図1(近世日本の国際秩序―17世紀半ば~19世紀前半―)と図2(近世日本の貿易―17世紀半ば~19世紀前半―)を用意した。図1には、当時の国際関係のうち外交を軸とする政治的諸関係をまとめ、図2には貿易を中心とする諸関係を図示した。対象とした時期は、かつて「鎖国の完成」の指標とされた、オランダ人の長崎出島への移転(1641年)から、いわゆる「開国」とされたペリー艦隊の来航(1853年)までの間である。
まず図1で、日本と周辺の国々や民族との関係を概観する。画面の右側に日本、左側に中国(清)があり、その間に、上から、「山丹(さんたん)」(山旦・山靼とも書く、主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と「蝦夷地」、朝鮮、「中国商船」と「オランダ商船」、さらに琉球がある。「蝦夷地」と松前藩が、朝鮮と対馬藩が、琉球と薩摩藩がそれぞれ接して様々な国際関係を営んでおり、「中国商船」と「オランダ商船」は長崎に来航していた。来航したオランダ人が出島(1641–1860年)に、中国人が「唐人屋敷」(1689–1870年)に滞在したことは、よく知られていることだろう。なお、「蝦夷地」の大部分は現在の北海道、「琉球」は沖縄県だが、そうなるのはこれらの地域が日本の国家領域に組みこまれた近代以後のことだ。近世日本においては、外国、あるいは「異域(いいき)」(日本以外の地)とされており、その地の住民たちは自らの国や地域に対する独自のアイデンティティを持って生活していた。私の「四つの口」論はそのことを前提としている。また、近世日本には海外に向けて開かれた窓口が四か所あり、長崎が「唯一の」窓口という俗説は成り立たないということを、あらためて確認しておこう。
長崎と3つの大名
人や物の出入り口のことを当時は一般に「口(くち)」と呼び、その土地の名前を付けて、例えば「長崎口」のように呼んだ。私がこれら4か所を「四つの口」と名づけ、それらのいずれも近世日本の国際関係の一環として、有機的かつ構造的な関連性においてとらえることを提唱したのは、1978年のことだった。なお、「四つの口」の国際関係は、1つの特権都市長崎と3つの大名(琉球=薩摩島津氏、朝鮮=対馬宗氏、蝦夷地=松前氏)が独占的に管轄し、徳川将軍がそれらの全体を統括した。
長崎と3大名は、それぞれが担当する外国や「異域」との関係を独占的に請け負い、その関係から得られる「所務(しょむ)」(貿易などの諸利益)を独占することを許されていた。将軍と長崎および3大名との間には、「御恩(ごおん)」(恩恵)と「奉公(ほうこう)」(奉仕)という封建的主従制の関係が成立しており、その関係を通じて、それぞれの「口」での国際関係が管理・運営されていた。この場合、「貿易」=「恩恵」と単純化して考えがちだが、実は、貿易には日本の社会などが必要とするものを調達するという「役」(役割・勤め)の面もあり、貿易不調の場合には幕府からけん責された場合もある。長崎および3つの大名は、それぞれの国際関係を「軍役」として担当し、それらは「押えの役」と呼ばれた。たとえば、対馬宗氏の場合は朝鮮押えの役、というように。それぞれの「口」での「所務」の独占は、そのための経済基盤として許されたものであり、他の大名の知行に相当するものと考えられていた。ただ、将軍の代理である長崎奉行の駐在地長崎が、国際関係全般について扱う権限を持たされていたのに対して、他の3口は、それぞれが担当する国や地域との関係しか許されていなかった。
朝鮮と琉球との関係
さて、「四つの口」の国際関係の実情に、もう少し立ち入ってみよう。朝鮮と琉球は、それぞれ清皇帝に朝貢使節を派遣しているが、日本の徳川将軍に対しても、朝鮮国王は通信使(ただし、この名目になるのは4回以降)を、琉球国王は謝恩使・慶賀使を派遣していた。通信使を含む朝鮮国王の使節は12回(1609–1811年)、琉球国王の使節は18回(1634–1850年)来日した。ただし、近世においては、徳川将軍から朝鮮国王へ直接の使節の派遣はなく(対馬藩から将軍名義の使節を送るのみ)、琉球への将軍使節の派遣もなかったが、その理由等については、本稿では省略せざるをえない。
これらの使節の来日中の食事・宿泊・警備等はすべて日本側(幕府・諸大名)の負担であり、両国の漂流民の保護・送還等の費用も日本側が負担した。朝鮮の釜山に滞在した対馬藩の使節に対しても、朝鮮側から種々の名目で費用や食料などが支給された。これらの使節をはじめ、貿易等のために滞在する商人などは、倭館と呼ばれる施設に滞在したが、これらの設営は朝鮮側によって行われた。このように、両国の関係のそれぞれの局面において、「国王」(徳川将軍と朝鮮国王)相互の「通信」(親善友好)関係にもとづく互恵関係が貫かれていた。この関係は、後に「通信」の関係とされた。ちなみに、幕府は幕末の修好通商条約の締結(1858年)後の欧米諸国との関係も、「通信」と位置づけた。なお、徳川将軍が「国王」、もしくはそれに等しい存在であったこと、それに関わる国際的な称号や位置づけなどの問題についても述べる必要があるのだが、ここではそのような問題があることを指摘するだけにとどめよう。
唐・オランダ人との関係
長崎口の唐・オランダ人との関係は、朝鮮・琉球の場合とは違っていた。幕府はその「口」における関係には直接関わらず、彼ら(唐・オランダ人)と長崎町人との、現代風に言えば、民間レベルの関係と位置づけていた。オランダ人については、1630年代からオランダ商館長が毎年江戸に参府することが義務づけられた。それは、長崎での貿易を許されているという恩恵に対するお礼というタテマエで、江戸・大坂などの幕府直轄都市の代表(町年寄)たちが毎年将軍に対して行う年頭の儀礼と同等の位置づけだった。従って、旅費等の費用はすべてオランダ側が自弁(自己負担)し、将軍やその家族(妻や子供たち)、さらには幕閣たちへの多額の贈り物もしなければならなかった。
唐人の場合も、ほぼ同様だった。唐人たちには江戸への使節派遣の義務はなかったが(使節派遣が計画されたことはあったが、実現せず)、来航唐人たちは、来航時には長崎奉行をはじめ長崎の地役人たちに対する多額の贈物をし、毎年「八朔(はっさく)」(8月1日の意味で、徳川家の祝日の1つ)には、来航唐人の代表が私的に徳川将軍の代理である長崎奉行に「お礼」をした(八朔礼)。
さらに、長崎に来航したオランダ人・唐人は、賃貸料を払ってそれぞれ出島と唐人屋敷に滞在し、貿易品の荷揚げ・船積等にかかる諸費用、滞在中の食費等の生活費から遊女たちの水揚げ代、さらには、漂流民の保護・送還にかかる費用まで、彼らの負担だった。出島も唐人屋敷も幕府の命令によって長崎市民の負担で建設され(出島は建設当時の町人25人の出資、唐人屋敷は長崎の町が幕府から借金)、賃貸料は彼らに支払われた。つまり、唐・オランダ人は長崎に出島町と唐人屋敷に借家人として滞在し、彼らに対する「支配」(監督・指導)の責任は、長崎の町、直接には、出島と唐人屋敷の乙名(江戸などの町名主に相当)と通訳官(オランダ通詞と唐通事)が負った。貿易に関しても、将軍の代理人である長崎奉行は、貿易業務の全体を管理・監督するだけで、実際の業務は商人レベル、すなわち、日本側の特権商人と唐・オランダ人の間を長崎という都市が仲介する形で行われた。この形態が後に「通商」の関係として理念化されることになるのだが、それは18世紀後半に整備される中国広東におけるヨーロッパ諸国との貿易形態――いわゆるカントン・システム――とよく似ている。
蝦夷地との関係
「蝦夷地」のアイヌからは、徳川将軍への使節の派遣はなかった。その代わりに、アイヌの代表が毎年松前に出向いて藩主に挨拶をする儀礼(ウイマム)と、将軍の代替わりに派遣される巡検使に対して和人地と蝦夷地の境界上で行う「オムシャ」という服属儀礼がおこなわれた。これは、蝦夷地が「無主(むしゅ)の地」と位置づけられていたことによるが、「無主」とは、住民がいないということではなく、その地に住む人々が独自の政治権力をもたないという意味であり、その地域の住民は、(この場合は、幕府=松前藩による)「撫育(ぶいく)」(守り育むこと)の対象とされ、上述の儀礼は、その恩恵に対するお礼の意味合いをもっていた。
日本型華夷秩序の形成
このように、近世においては、「四つの口」での国際関係が、徳川将軍を頂点として、「通信」・「通商」・「撫育」という三つの範疇の関係で編成されていた。私はこれを「日本型華夷秩序」と呼んでいる。豊臣秀吉から徳川家康、さらに秀忠の前半期にかけては、明との国交回復(「勘合復活」)が最大の課題だった。秀吉の朝鮮侵略も戦後の日朝講和や島津氏の琉球侵略(1609年)もその一環でもあったのだが、1620年代の初めにはその失敗が明らかになる。その事実と成果を踏まえて、すなわち、明との国交回復の失敗という現実とそれまでに試行錯誤しながら再構築してきた周辺諸国・民族との国際関係をもとに、それらを自己を中心とする国際秩序として整備していくことになる。
秀忠政権の後期から家光政権にかけてが、その時期に当たる。詳しい説明は省略せざるをえないが、島原・天草の乱(1637–38年)や、シナ海域への日本人の渡航禁止(1635年)からポルトガルとの断交(1639年)、中国大陸における明清交替(1644年)から清の覇権の確立(1684年)などを経て、この国際秩序(日本型華夷秩序)も、東アジアの国際社会に定着していくことになる。これが、近世における日本の国家の中国からの自立の第1段階、すなわち、政治的自立だった。私は、最近、このようにして構築された近世日本の国家形態を、複数の国家と民族によって構成される複合国家、すなわち「帝国」と考えるようになった。それは8世紀に成立した律令国家の「東夷の小帝国」(石母田正)の近世版でもある。
なお、これらの関係が3つの範疇として理念化され、対外的に明示されるのは、18世紀末から19世紀初めにかけての欧米諸国による外圧(通商要求)に対してである。そのことから、このような範疇や「四つの口」そのものも、その時期まで存在しなかったとする批判もある。しかしすでに述べてきたように、その関係と編成のための論理そのものは近世以前から存在していた。その論理は東アジアの国際関係が伝統的に構築してきた、この地域に共通する、いわば国際関係の文法に等しいものであり、それにのっとってこれらの「口」の諸関係が編成された。上述したように、18世紀後半からの中国広州における欧米諸国との貿易形態(カントン・システム)がよく似た形態をとるのは、同じ「文法」、つまり、「通商=互市」の論理にのっとって構築されたからであると私は考えている。
日・朝・中の海禁政策
つぎに、海禁概念について説明しよう。以下の表は、日・朝・中3国が、それぞれの国情に応じて多少の異同はあるものの、同様に海禁体制をとっていたことを示している。海禁という言葉は、明律の「下海通蕃之禁」から来たもので、一般国民(あるいは臣民)が私的に海外に出たり外国人と交わったりすることを禁止する制度や禁令のことを意味している。この法令が14世紀の倭寇対策としても有効だったことから、一般に倭寇対策と見なされやすいが、必ずしもそうではない。
[表]日・中・朝の「海禁」比較
規定 | 国 | |||
---|---|---|---|---|
対象 | 内容 | 中国 | 朝鮮 | 日本 |
船隻 | 大きさ・構造 艤装等 乗組員等 搭載品(軍旗、硝・硫・銅、米穀等) | ○ ○ ○ ○ | — — — — | ○ — — — |
渡航 | 渡航先 渡航期限 | ○ ○ | — — | ○ ○ |
輸出入品 | 輸出品 輸入品 | ○ ○ | ○ ○ | ○ ○ |
貿易 | 貿易地(港)の制限 外国人居住地(施設)の設定 特許貿易商人の設定(他の商人の直接貿易禁止) 貿易(期間・品目・数量等)の制限 定例以外の外国貿易の禁止 | ○ ○ ○ ○ ○ | ○ ○ ○ ○ ○ | ○ ○ ○ ○ ○ |
朝貢その他の使節 | 対象国の制限 使節についての定例(貢期・人数・その他) 使節船・使節一行等との貿易 | ○ ○ ○ | ○ ○ ○ | ○ ○ ○ |
註(1)○は規定の存在を、—は特に規定の存在しないことを示す。
(2)規定は『縮刷東洋歴史大辞典』(臨川書店)所載の「海禁」(増井経夫)の項の記載を参考にした。増井氏は「大清会典」と「大清会典事例」に依拠しており、本来ならば原典によって規定の項目も立てるべきであるが、本稿では、便宜的に『辞典』の記載によった。原典による詳細な分析は後日を期したい。朝鮮に関しては『校註大典会通』(朝鮮総督府)、日本に関しては「通行一覧」等によった。
*荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)より
この法令は明律においては、「関津(かんしん)」、つまり、海上交通と陸上交通の管理・統制の項目に入れられている。そのことから見ても、この法令は人や物・情報などの「出入国管理」を目的とするもので、およそ、国家(あるいは、その主宰者である国王等の国家元首など)が根源的に持つ権限の1つである。その理念を端的に言語化したものが「人臣に外交なし」(外交は国王大権)という言葉だ。この理念や表現は中国起源だが、古代日本においてもすでに見ることができ、少なくとも古代以来の東アジアの国際社会の「文法」の1つだったと考えることができる。海禁はその歴史的かつ制度的な表現であり、具体的な歴史的内容と伝統を持ち、国を鎖すという意味のヨーロッパ語(オランダ語)の翻訳語(和製漢語)である「鎖国」とは以って非なるものであることを、改めて指摘しておきたい。
もちろん、海禁にも、単に国家権力(中央政府)がその理念を保持しているのみに等しい状態(例えば、中世日本など)から、17世紀中期の清朝による「大陸封鎖令」(遷界令、1661–83年)や近世の日本や朝鮮の「四つの口」による厳密な出入国管理、さらには、現代の近代国家におけるパスポートなどによる巧妙な出入国管理まで、様々な形態や歴史的位相がある。
17世紀末には、日・朝・中・琉の4つの国家が海禁体制をとり、「人臣」の私的な出入国を管理することで国際関係を管理・統制下に置きながら、是々非々の政府間ネットワーク、すなわち国際関係を構築した。それ以後19世紀後半まで東アジアは平和を維持したが、それはこの国際関係がこの地域の国際間の矛盾の調整機構として機能したことによる。上述のような外交使節団の往来や貿易、彼我の漂流民の送還などはその表れでもある。
「四つの口」の貿易とその変遷――日本市場圏の中国市場からの自立を中心に――
次に図2で、「四つの口」当時の貿易の様子を概観する。この図から、「四つの口」をはさんで、右側に日本市場が、その反対側に中国市場があり、さらに、その南に「バタビア」(現ジャカルタの一部)を中心とする東南アジア市場があることが見てとれる。先に述べたように、長崎には「唐船」と呼ばれた中国式のジャンク船とオランダ船が来航していたが、ともに直接・間接にこれら3つの市場を結ぶことをそのおもな役割としていた。
長崎に来航した唐船
まず、「唐船」について述べよう。近世に長崎に来航した「唐船」は、1685年を境に大きく性格を変える。それ以前の唐船は、中国本土の政府(明・清)の許可を得ないで来日したもので、中国政府にとってはいわば倭寇に等しい存在であり、この時期に九州を中心に唐人町が形成された(図3、なお後述)。徳川政権が唐人との関係を民間レベルのものとした理由も、ここにある。特に、17世紀後半は台湾に拠った鄭氏政権(1662–83年)の配下、もしくはその影響下にある船で、船数も20~30隻で、その風俗も伝統的な漢民族のものだった。鄭氏の服属を機に清朝が遷界令を撤廃し(1684年)、翌85年からは中国本土から唐船が大挙して来航するようになり、船数も100隻を超すこともあり、かつ彼らの風俗も辮髪など清朝風に変わった。それに対応するために、貿易額に定額(定高制)が設定され、さらに唐人屋敷が設定された。それ以後、貿易の不調や抜荷(ぬけに)(密貿易)の横行、貿易の極度の不振による長崎の衰微などが継起するが、それらの混乱も新井白石の正徳新例(1715年)とその新体制の清朝による承認(1716年)によってようやく治まり、日中関係も安定した。
日本側は唐船をその出港地によって、「口船(くちぶね)」・「中奥船(なかおくぶね)」・「奥船(おくぶね)」の3つのカテゴリーに分けていた。口船は、日本に近い江蘇・浙江、中奥船はそれよりも遠い福建・広東・広西、奥船は、ベトナム・カンボジア・タイなどの東南アジア諸地域からの船であることを意味していた。つまり、唐船は中国本土だけでなく、東南アジア地域をもカバーしていたことになる。長崎の通訳官(唐通事・オランダ通詞)のことはよく知られているが、18世紀の後半に廃止されるまで、シム・カンボジア・モール(ムガル)通事も置かれていた。オランダ船は、おもにジャワ(インドネシア)のバタビアから直接、あるいは、東南アジア各地の港市を経由して長崎に来航しており、唐船の「奥船」の商圏とほぼ重なっていた。
長崎口以外での貿易
次に、長崎口以外の3口、すなわち、朝鮮・琉球・蝦夷地での貿易を見よう。貿易品の内容から、大きく2種類の貿易があったことがわかる。1つは、それぞれの国・地域、つまり、朝鮮・琉球・蝦夷地の産物や特産物と日本の商品の交換による貿易。もう一つは、それぞれの地域によって仲介される中国商品(例えば、生糸)と日本商品(例えば、銀)の交換による貿易。日本は、朝鮮・琉球・蝦夷地の「三口」での貿易を通じて、それぞれの国・地域の商品のみでなく、中国商品を輸入し、中国市場は日本の商品を、これら「三口」を通しても入手していたことになる。つまり、日本市場は、長崎だけでなく琉球・朝鮮・松前を通じても中国市場と結ばれていたのだった。
このような貿易の構造がどのように形成されたのか、その概略を述べておこう。このような日本の銀と中国の生糸の交換を軸とする貿易構造は、中国とその周辺地域の経済発展によって、16世紀はじめには形成されていた。しかしその頃には明を中心とした朝貢貿易体制は機能不全に陥り、やがて日明勘合貿易も途絶した(1557年)。それらの公的、あるいは、国家間の交易ネットワークに代わってこの交易を担ったのが、既成のバイパスルート(朝鮮・琉球など)や、「後期倭寇」に代表される民間の勢力やヨーロッパ勢力(ポルトガル・スペイン)だった。
倭寇対策の一環として明政府は海禁を一部緩和して、一般の中国人の東南アジア方面への渡航を許可した(1567年)。しかし日本への渡航は許可されなかったので、台湾やフィリピンをはじめとする東南アジア各地の港市が、日本の銀と中国の生糸を交換する出会い貿易の地となった。日本人もこれらの地へ渡航し、日本町が形成された。
この交易ルートを確保しつつ、統制するために家康が始めたのが朱印船制度だった。その一方で、明政府の禁令にもかかわらず日本には銀を求めて多くの華人(中国系の人々)が渡来し、九州各地を中心に多くの「唐人町」が形成された(図3)。直接にはポルトガル船の寄港地として開港された長崎(1571年)も、これらの「唐人町」の一変種であり、徳川政権による統制策の強化とともに、「華人」(唐人)の来航地が長崎に限定された(1635年)。それともなって、これらの唐人町の機能と人口(華人たちもふくむ)も長崎に吸収され、シナ海域の交易ルートの統制と貿易をつかさどる都市としての「長崎口」が形成された。
なお、シナ海の中継ぎ貿易を担う諸勢力の間では、日本市場をめぐって厳しい競争が繰り広げられたが、幕府は、必要とする貿易品の確保(輸入能力)とキリスト教の禁制の徹底と国際紛争の回避、さらに幕府への忠誠心などの観点から、唐人とオランダ人を選んだのだった。朱印船(最末期は奉書船)が禁止されたのは、それがキリスト教流入のルートであり、国際紛争の火種でもあると見なされたからである。
ちなみに、従来「鎖国令」とされてきた「条々」(法令)のほとんどは、長崎奉行に対する幕閣の業務指令書であることが明らかにされている。そのことから、全般的に日本人の海外渡航を禁止したと解釈されてきた条文は、奉行が管轄する地域(東南アジア方面)への日本人の渡航を禁止した(この地域の日本人の帰国も同様)にすぎないことが判明する。近世を通じて、朝鮮の釜山倭館には500名以上の日本人が、蝦夷地や琉球にも相当数の日本人が滞在していたが、その制度的な根拠がこれで明らかになる。
貿易品目の変遷
さて、図2にもどろう。注記を見ると、輸出入ともに貿易品が、時期によって変化していることがわかる。その変化の大きなものは、2度起きている。1度目は、日本国内の経済発展と銀生産の衰微によって、銀輸出が停止されたことにともなって起きた。これによって、中国からの白糸(毛足の長い上質な生糸)や朝鮮人参の輸入が止まった。それにともなって輸出品の中心が銅と海産物(ただしオランダは海産物は輸出せず)に替わり、輸入も、砂糖や薬種など、より民生用に近いものに変わった。16世紀前半に形成され、東アジアの国際関係を規定しつづけた貿易構造は、こうして終わりを告げた。
2度目は、日本を中心にその周辺の蝦夷地・琉球・朝鮮などの国家・地域との間に形成された市場圏の成熟であり、この市場圏の中国市場圏からの自立である。19世紀20年代の日本に滞在して(1823~29年)、日本と周辺諸国・地域との関係について詳細な記録を残したF・フォン・シーボルトは、結論として、次の3点を挙げている(シーボルト『日本』1832–51年)。(1)日本は広い意味で「一個の世界を形成」し、ヨーロッパとの貿易がなくても国民の繁栄を損なうことなく存立できる、(2)中国との貿易はとるに足りないものだが、これによって旧世界とのつながりを保ち、国民の必需品は調達できる、(3)朝鮮・琉球・蝦夷地などの保護国及び近隣諸国を植民地として、これらと盛んに貿易を行っている」。(1)の「一個の世界」が私の言う日本型華夷秩序に対応している。(2)が、日本が中国市場圏(=中華秩序)からもほぼ自立していること、(3)がその経済的基盤が周辺諸国・諸地域との盛んな「貿易」、すなわち、日本市場圏の成熟であることを示している。
最初と2度目の間、つまり18世紀の間に日本において起きたことは、第1段階の変化への対応、すなわち、輸入が途絶した17世紀までの主要な輸入品(白糸や朝鮮人参など)の国産化であり、それを支えた商品生産と技術の発達だった。それによって、18世紀の主要な輸入品だった砂糖(唐・オランダ)も薩摩藩によって供給されていた琉球・奄美の黒糖も、値崩れを起こすことになる。その一方で日本の国内市場は、商品作物生産のための金肥(鰊の〆粕)の主要な生産地である蝦夷地や、庶民の甘味(黒糖)の供給地でもある琉球・奄美への依存と吸着を強めていくことになる。日本市場圏の成熟は、蝦夷地のアイヌや琉球・奄美、とくに奄美地域に対する収奪の強化に直結したことを、忘れないようにしたい。
おわりに――「四つの口」のなかの長崎・オランダ――
近世の国際関係というと、多くの人はほとんど反射的に、「長崎・オランダ」を思い浮かべるのではなかろうか。しかし、長崎における貿易の実際を見ると、貿易量ではオランダは中国のほぼ3分の1、長崎に滞在した人数も、最盛期の17世紀には数10人規模のこともあったが、18世紀に入るとほぼ20人余りにとどまり、その中にはアフリカや東南アジアから召使などとして連れてこられた人々も交じっていた。17世紀の後半までは日本貿易は、オランダ東インド会社にとってドル箱だったが、シナ海交易の拠点だった台湾から鄭成功に追い出され(1662年)、さらに、日本からの銀輸出が不可能になると、利益率は急速に落ち、18世紀に入ると、日本市場からの撤退を検討するようになる。オランダ商館長日記には、貿易不調に対する苦情などがあふれている。それにもかかわらず、それから約1世紀半の間オランダ人が出島に留まり続けた。その理由は実はまだ明確になっていないのだが、今、私に考えられる理由は、17世紀ほどの莫大な利益は得られないものの、断念するまでにはいたらないほど、「そこそこ」の利益が見込まれたからではなかろか。
新井白石の正徳新例の目的は、崩壊の危機に瀕した長崎貿易を、都市長崎そのものを立て直すことだった。その方法は簡単に言えば、都市長崎とそれによって成り立っている貿易体制を維持するために、貿易そのものを組み替えること、より具体的には、輸出品が調達できる範囲に貿易量を抑えるということだった。言いかえれば、貿易を持続可能なものに組みかえることによって、体制も維持するということだった。この施策の成功によって、長崎の貿易とそれによって支えられていた国際関係の管理統括の体制も、幕末まで維持されたのだった。
オランダとの関係が重要な意味を持つようになってくるのは、18・19世紀の交(こう)、いわゆる「外圧」(欧米諸国の通商要求)に入ってからのことだ。いわゆる「鎖国」という和製漢語が、志筑忠雄によって創出されるのがこの時期であることは(志筑忠雄『鎖国論』1801年)、その歴史的意義までも象徴しているように私には思える。
(2012年7月9日記)