オホーツク世界と日本
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北海道のオホーツク海地域、すなわちオホーツク世界が日本の歴史に登場するのは、18世紀後半から19世紀初めにかけて、千島列島を南下して来たロシア人とそれを排除しようとした日本人の間に衝突が頻繁に発生した以降のことである。しかしながら、北海道に居住していたアイヌ民族は13世紀ごろから北はサハリンに、東は千島列島からカムチャツカ半島に進出して北方の諸民族と交易や交流を展開していた。
アイヌ民族のサハリン進出――13世紀――
1263年11月に、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライはアムール川下流域を支配下に組み込むと、そこに居住している女真(じょしん)民族やナナイ民族を、およびアムール川の河口域とその対岸のサハリンに居住しているニヴフ民族を統治下に入れた。元朝の歴史書である年代記『元史』によれば、1264年11月に、フビライはサハリンにいる骨嵬(こつがい)を征討させたという(図1)。これは、すでにモンゴル軍に服属していたサハリンの吉里迷(きつりめい)が、自分たちの土地に骨嵬が侵入して来たことを訴えたので、モンゴル軍は骨嵬を討ったというのである。
アムール川下流域のナナイ民族はニヴフ民族をギレミと呼んでいた。中国ではこの名称を漢字で吉里迷(ギリミ)と表記した。17世紀にアムール川下流域にやって来たロシアの探検家たちはこのギレミをギリヤークと呼んだ。この民族の自称はニヴフであり、ニヴフ民族は今でもアムール川の河口域とサハリン北部に約4,500人が居住している。
ニヴフ民族はアイヌ民族をクギと呼んでいた。元朝ではこの名称を漢字で骨嵬(クギ)と表記した。アムール川下流域のツングース諸民族はアイヌ民族をクイと呼んでいた。これはクギが訛ってクイと発音された呼称であり、明朝ではこれを漢字で苦夷(クイ)と表記した。アイヌ民族はサハリン南部に、江戸時代の後半期に約2,500人、日本のサハリン南部統治期(1905~1945年)に約1,500人が居住していた。
これまで長い間、アイヌ民族は古代からずっとサハリンに居住していたと考えられていた。しかしながら、近年のサハリン考古学の研究成果によって、13世紀にサハリンにはニヴフ民族が居住していたことが明らかになっている。その結果、上記の『元史』の記述には13世紀の中ごろ、南から、すなわち北海道からアイヌ民族がサハリンに進出して、ニヴフ民族を圧迫している状況が反映されていると考えられている。
1265年3月に、骨嵬は吉里迷の兵士を襲って殺したが、モンゴル軍は骨嵬に食糧や弓・甲(かぶと)などの武器を与えて、骨嵬を手なずけている。すなわちモンゴル軍はアイヌ民族の狼藉に手を焼いているものの、鎮圧せずに、モンゴル側に服属させようとしている。1271年にフビライは中国に元朝を建国した。元朝は1272年と1273年の二度、サハリンへ骨嵬征討軍を派遣したが、海峡を渡ることができなかったという。その後も、1284年、1285年、1286年の三度にわたって大軍を派遣して、ようやく骨嵬を討伐した。それにもかかわらず、骨嵬は再び元軍に反抗して、1296年、1297年、1305年には間宮海峡を越えて、大陸側に攻め込んでいる。しかしながら1308年に骨嵬はついに元軍に屈服し、以後、毎年、貢物として毛皮を納めることを課せられた。
サハリンのアイヌ民族と明朝――15世紀――
このようにサハリンのアイヌ民族は40年あまりにわたってモンゴル軍・元軍と衝突を繰り返している。モンゴル軍・元軍はアイヌ民族の鎮圧に手を焼いて、1286年の遠征の際には兵士10,000人、船1,000艘を率いてようやく討伐したという。おそらくこの数字はあまりにも誇大な表現であろうが、実際にサハリンのアイヌ民族は執拗に元軍に抵抗し、ようやく、アイヌ民族は元朝に服属して貢物を納めるようになった。
1368年に建国された明朝もまた、1387年にアムール川下流域を支配下に収め、第3代皇帝永楽帝は1411年に河口域のヌルガンに統治の役所を設置し、1413年にはそこに仏教寺院の永寧寺を創建した。その後、この寺は現地の住民やニヴフ民族によって破壊されたが、1433年に再建された。
現地には、その役所と寺が創建された経緯が記されている石碑が建てられた。その碑文にはアムール川下流域の諸民族や海峡の向こうの苦夷(クイ)、すなわちサハリンのアイヌ民族がヌルガンの役所にやって来て、明朝から衣服や道具や食料を賜ったことが記されている。そのことは、引き換えに、それらの諸民族やアイヌ民族は明朝の役所に貢物を納める義務を負ったことを意味している。
ヌルガンの永寧寺はその後、廃墟になったが、その寺院跡はアムール川の河口から153km さかのぼった今日のティル村にあった(図2)。この遺跡は1995~2000年にウラジオストクの考古学者によって発掘され、明代の仏像、貨幣、寺院の礎石、大量の屋根瓦などが見出されている。
北海道とサハリン・千島の交易――17世紀――
1602年にイエズス会の宣教師として日本にやって来た神父ジェロニモ・デ・アンジェリスは京都、駿府(すんぷ)を経て、1615年に仙台に至り、ここを拠点として広く東北地方で布教した。その期間にアンジェリスは1618年と1621年の二度、蝦夷(えぞ)の地、すなわち北海道を訪れて、その際、蝦夷とはどんな人たちか、蝦夷の地はどのような土地かについて、詳細に記した書簡をイエズス会の神父に送っている。この2通の書簡は「アンジェリスの第1蝦夷報告」、「アンジェリスの第2蝦夷報告」として知られている。
また1609年に同様にイエズス会の宣教師として日本にやって来た神父ディオゴ・カルワーリュは天草(あまくさ)を経て、1617年にアンジェリスがいる仙台に至り、広く東北地方で布教した。その期間にカルワーリュもまた1620年と1622年の二度、蝦夷の地を訪れて、そのうち、1620年に訪れた際に、蝦夷の地について詳細に記した書簡をイエズス会の神父に送っている。この書簡は「カルワーリュの旅行記」として知られている。
(1)アンジェリスの報告から
アンジェリスは、当時、北海道の南端部にあった日本人の都市である松前(まつまえ)に滞在して、そこで蝦夷人(えぞじん)、すなわちアイヌ民族に出会って、蝦夷の地に関するさまざまな情報を得ている。その情報には、次のような記事がある。松前には毎年、蝦夷の東部にあるメナシ地方から、そこに住む蝦夷人が100艘の船に鮭(サケ)や鰊(ニシン)を積んでやって来る。またラッコというヨーロッパの貂(テン)に似た動物の毛皮をたくさん持って来る。ラッコは蝦夷の地、つまり北海道には生息しておらず、東方のラッコ島に生息しているので、メナシ地方の蝦夷人、つまりアイヌ民族はそこへラッコの毛皮を買いに行くという。
またラッコ島の近くには、そのほかにも多くの島があり、その島の住民はあまり色白くなく、鬚がなく、その住民が二人、昨年、松前にやって来たが、彼らの言葉を理解できる蝦夷人はいなかったという。アンジェリスは蝦夷人、すなわちアイヌ民族について、毛深く、胴部に達するほど長い鬚があると言っている。したがって蝦夷人と異なる言語を話すというその島の住民はアイヌ民族ではなかったのであろう。
また蝦夷の北部にある天塩(てしお)地方からも、そこに住む蝦夷人が船で松前にやって来て、さまざまな品物とともに、中国製のようなきらびやかで稠密な絹織物をたくさん持って来るという。「アンジェリスの第2蝦夷報告」には蝦夷の地を描いた地図が添えられていて、そこには蝦夷の地が本州の北に巨大な島として描かれている(図3)。
この巨大な島の西端にあるという天塩地方の向かい側、つまり西側には朝鮮、もしくは中国の北東部が描かれている。アンジェリスはそのような地理上の認識から、天塩からもたらされる絹織物を中国製と推測したのであろう。しかしながら実際には、それらの絹織物は15世紀に苦夷、つまりサハリンのアイヌ民族が、明朝のヌルガンの役所に貢物を納めるのと引き換えに与えられたのと同様の絹の衣服だったろう。そのような絹織物がサハリン経由で天塩にもたらされていたのであろう。
(2)カルワーリュの旅行記から
カルワーリュもまた松前に滞在して、蝦夷の土地に関するさまざまな情報を得ている。その情報によれば、北東方向から蝦夷人が60日あまり航海して、松前にやって来て、ラッコ島から産出するラッコ皮という柔らかい毛皮をもたらすという。また彼らは生きた鷹(タカ)や日本人が矢に付けて飾る鷲(ワシ)の羽をもたらすという。また北方から蝦夷人が70日あまりも航海して、松前にやって来て、非常に上質な絹をもたらすという。
このようにアンジェリスとカルワーリュの報告から、17世紀初めに北海道のアイヌ民族が北はサハリンに居住しているアイヌ民族と、東は千島列島に居住しているアイヌ民族と広範囲にわたる交易に従事していたことがわかる。
ロシア人のカムチャツカ進出――17世紀末――
17世紀にロシア人はシベリアの探検と開拓を目指して東方へ進み、17世紀末にはカムチャツカに到達した。カムチャツカの大地はどこまで続いているのか、その探検を1697年に命じられたウラジーミル・アトラーソフはカムチャツカ半島の中央部で現地の住民であるカムチャダール民族に出会い、次いで南端部でカムチャダールとは顔つきが異なる人たちに出会った。その人たちをアトラーソフはクリルと呼んでいる。
アトラーソフはシベリアの中心都市であるレナ川中流域のヤクーツクに置かれたシベリア統治のための役所シベリア庁でカムチャツカ探検を報告した。その報告によれば、クリルたちのところへは海上の島々から陶器や木綿服が運ばれて来るという。
カムチャツカ半島の向こうの海上に島々があることがわかると、ロシア政府はそれらの島々の探検をシベリア庁に命じた。こうしてイワン・コズィレフスキーが派遣され、彼は1711年に第1の島シュムシュ島に渡り、1713年には第2の島パラムシリ島に上陸した。パラムシリ島で島の住民に会い、また、その時、たまたま、はるか遠いエトロフ島からパラムシリ島に交易にやって来ていたシャタノイという名前の異人に出会った。彼はアトラーソフがクリルと呼んだ人たちと同じ人たちだった。コズィレフスキーはシャタノイからさまざまな情報を得て、これをヤクーツクのシベリア庁に報告した。この報告は、18世紀初めにアイヌ民族がカムチャツカ半島の南端部、千島列島、北海道を結ぶ活発な交易に従事している様子を生き生きと具体的に伝えている。
アイヌ民族のカムチャツカ交易――18世紀――
第1の島シュムシュ島にはクリル人が住んでいる。この島には南方の島のクリル人たちがやって来て、ラッコやキツネの毛皮、矢に付けるワシの羽を持ち帰る。第2の島パラムシリ島にもクリル人が住んでいる。この島にも遠い島のクリル人が商売にやって来て、絹織物や綿織物、刀や鍋、陶器を持って来る。第3の島オンネコタン島にもクリル人が住んでいる。この島の住民はカムチャツカにラッコやキツネの毛皮を買い付けに行き、それを持って南の遠い島々に行く。しかもこの島の住民はカムチャツカの人たちの言語を知っている。なぜなら、彼らはカムチャダールと交易し、結婚するからである。すなわち、彼らはカムチャダールの娘たちと結婚し、彼らの方からもカムチャダールに自分たちの娘たちを嫁がせているという。第5の島シャシコタン島にも、遠くのエトロフ島からクリル人が商売に来る。しかもこの島は、北の島々と南の島々の住民たちが交易のために集まる場所であるという(図4)。
ずっと南方のウルップ島では、住民は南のクナシリ島に行き、そこで絹織物や綿織物を購入して、それを持って北方のシュムシュ島やパラムシリ島に行き、ラッコやキツネの毛皮、ワシの羽と交換する。その南のエトロフ島では、住民はカムチャツカに商売に行くという。これはまさにシャタノイが自ら語った情報だろう。また、この島の住民は日本人が言うエゾと同じであるという。
その南のクナシリ島では、この島にはマトマイ島から小船がやって来て、絹織物や綿織物、鍋を、生きたワシやワシの羽と交換する。またクナシリ島の住民はしばしば交易のためにマトマイ島に行き、同様にマトマイ島からも彼らのもとへ人々がやって来る。
最後の第15番目の島マトマイ島は他のどの島よりも大きく、エゾ、すなわちクリル人が住んでいる。また、日本人はこの島にマトマイという町をつくり、これは南西海岸にあって、日本人が住んでいるという。すなわち、マトマイ島は北海道であり、マトマイの町は日本人が住む都市松前(まつまえ)を指している。そして松前の町から日本の商品である絹織物や綿織物、刀や鍋、漆器がクナシリ島へ運ばれ、それがラッコやキツネの毛皮、ワシの尾羽と交換されるという。
コズィレフスキーが報告したカムチャツカ半島と北海道の間にある多数の島々、すなわち千島列島にはロシア人がクリルと呼び、日本人がエゾと呼んだ人たち、すなわちアイヌ民族が居住していた。18世紀初めのコズィレフスキーの報告によれば、千島列島のアイヌ民族は北海道と北千島を結ぶ交易のみならず、北海道とカムチャツカを結ぶ交易さえも展開していた。このような交易はアンジェリスとカルワーリュが報告しているように、すでに17世紀初めにも展開されていたのである。
アンジェリスは、ラッコ島の近くの島から蝦夷人、つまりアイヌ民族と異なる言語を話す二人の住民が松前にやって来た、と伝えている。コズィレフスキーの報告から判断すれば、おそらく彼らはカムチャツカの住民であるカムチャダール民族だったのだろう。17~18世紀に北海道東部のオホーツク海では、このような民族の交易と交流が展開されていたのである。