日本人と英語(2):「スピーキング幻想」が生んだ大学入試 “改悪”
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民間業者への利益誘導か
2020年から日本の大学入試が変わる。特に注目を集めているのは英語だ。これまでのセンター試験を廃止し、実用英語技能検定(英検)、GTEC、TOEFL、TOEICなど7種類の民間試験を導入するという。受験生は高校3年時の4〜12月にいずれかの試験を最大2回受験できる。入試改革推進派によれば、従来のセンター試験が「読む・聞く」に「偏って」いたのに対し、こうした業者試験は「読む・書く・聞く・話す」を測る4技能型だから、入試に採用すると英語力向上に効果があるとのこと。中でも特に「スピーキングテスト」の導入により「使える英語力」が飛躍的に身に付くという。
しかし、少し考えればこの “宣伝” がおかしいことは分かる。取り立てて新しい学習法が導入されるわけでもないのに、どうしてテストを変えるだけで学力が上がるのだろう。「4技能型試験」といっても目新しいのはスピーキングの実技が入るくらい。しかも業者ごとにテスト形式はパターン化されている。手っ取り早く点数を上げようと、生徒や教員は試験対策にばかり関心が向き、英語の勉強は二の次になる。実際、街角には「あなたは大丈夫? 試験対策は当塾で!」といった看板が登場している。これでは「使える英語」どころか真の意味での学力が低下する可能性大だ。しかも試験業者は、試験対策まで請け負って問題集を販売する。受験者を増やそうと、業者による点数の安売り競争(ダンピング)が始まっているともいわれる。これで公正な入試と言えるのだろうか。問題は山積みだ。
このあたり、詳しくは拙著『史上最悪の英語政策』(ひつじ書房)を参考にしていただきたいが、はっきり言って「4技能」看板は業者試験導入のための「つじつま」合わせにすぎない。そもそも「4」という概念は便宜上の区分けで、英語を使うときに脳が4つに分けられるわけではないし、「スピーキングテスト」だけで「話せるようになる」というのも幻想だ。テスト向けとなれば生徒は硬くなって余計話せない。採点方法の信頼性も低い。本当に望ましいのは、時代遅れの分断型のスキル訓練より、生徒の興味や自主的な判断を芯に据えた統合型の学習なのである。
一部では、この政策が推進された背景には当時の下村博文文科大臣(2012〜15年)と試験業者、塾業者、英会話学校との癒着があると報道された。現に、外部試験を運営する利害関係者が何人も、外部試験導入を検討する協議会のメンバーに名を連ねていた。利権誘導が目的とも思える弊害だらけのこの政策はすぐに中止すべきだ。ただ、こうした英語政策の迷走の背景には、私たち自身の英語を巡る根深い誤解もある。この点を反省しなければ、たとえ政策に修正を加えてもまた同じことが起きる。英語力の増進など望めないし、国際競争力などつくわけがない。本稿では、そんな誤解の芯にある日本人の「スピーキング幻想」について考察する。
今も続く敗戦後の「英語バブル」
日本では、大学が創設された明治時代初頭には、全ての授業は外国語で行われていた。教員が外国人で、文献も外国語、翻訳もなかったからである。そうせざるを得なかったのだ。皮肉を込めて言うなら、この当時、日本はもっとも「グローバル」だった。
しかし、そんな状況もやがて変わる。学問のための文献が日本語に翻訳され、日本語を話す教員が育つと、日本語で学問ができるようになった。外国語の概念を日本語に移入するのに、知識人たちは多大の労力を費やした。と同時にこの翻訳と変換の作業を通して、私たちは西洋文化を相対化する複眼的な思考をも身に付けた。
しかし、こと英語学習となると、こうした自前文化の熟成はもろ刃の剣でもあった。というのも、翻訳書が出回り知識の習得が日本語で行えるようになると、英語を勉強するモチベーションが下がったからだ。しかも、大正から昭和にかけて教育を受ける層は拡大し、動機もなしに英語を勉強する人も増えた。すでに大正期には「なんで英語をやるの?」(当時の英語科存廃論)を問う声が出ていた。
その後、太平洋戦争中には英語が敵性語として禁止されるが、戦後は逆に米国文化が日本を席巻した。ただこの時期、確かに英語を学ぶモチベーションは上がったが、必ずしも「必要」とした人が激増したとは言えない。英語熱はぼんやりした「憧れ」に支えられたもので、一種の「バブル」だった。そしてこのバブルが形を変え、今日も続いている。
「カッコイイ」消費財として流通
現代世界は急速に「グローバル化」したという。そのグローバル化はしばしば「英語化」と同義ともされる。しかし、日本の日常生活で、英語を使わなければならない場面はまだ多くない。日本人が「英語ができない」としたら、これが最大の原因だろう。
かつて英語によって統治され、今でも公用語が英語の国々、シンガポールやインドなどの国民が英語を使えるのは、社会の中で地位を得るために英語力を身に付ける必要があったからだ。日本ではその必然性がないので真剣になれない。そもそも週5時間程度英語の授業を受けるだけでは十分ではない。公の制度が一つの言語で動いている国では、異なる言語を使い分ける習慣も育ちにくい。英語の知識があっても、スイッチが切り替わらないと知識は生かせない。
これが日本の英語の現実である。小手先の改変ではとても変えられない。ところが面白いことに、この国では英語が「カッコイイ」ものとなっている。なぜなら、英語は「よく分からないけど、何となく欲しい」消費財として流通したからだ。「英語できるといいかも」と思う気持ちは、ブランド品の広告を見て初めて「欲しい」と思う気持ちと似ている。
英語は数多くの消費財を手に入れた日本人がまだ手に入れていないものなので、希少価値がある。「欲しい」を支えるのは軽やかな消費欲なのだ。だから肥大した英語産業はあの手この手でイメージ戦略を打ち、消費財をいかに買わせるかに腐心する。揚げ句には、政治家と手を結んで入試政策にも介入する。
話すことより大事なのは「聞き取る」能力
そもそもなぜ学校で英語の勉強をするのか、私たちは改めて考えるべきだ。その上で、もし本当に「英語の習得」を目指すのなら、「英語ができる」とはどういうことかを問い直す必要がある。英語が好きという言う人も、得意分野はそれぞれ異なる。読むのが好きな人もいれば、作文が得意な人もいる。“単語博士”もいれば「発音大好き」という人もいる。
にもかかわらず、「英語ができる」と聞くと、私たちは英語を読んだり書いたりすることより、「ぺらぺら話す」というイメージを思い浮かべる。さわやかな日差しの下、芝生に座り、ちょっと薄着でにこやかにアメリカ英語で談笑する人たち―まさに「美しい英会話」の光景である。
私たち消費者はこうした“絵”に乗せられやすい。仕事や研究でどうしても英語を使う必要があるなら、当然、1人で単語を覚え、聞き取りや音読練習の地道な努力をしなければならない。スピーキングの練習だけをしても効果がない。一番のネックは聞き取りだろう。相手の言っていることを聞き、それに反応してこその会話である。ところが日本語と英語では音のシステムが異なるので、「聞き取れる」ためには相当な訓練が必要だ。海外に留学しても、みんなここで苦労する。だからこそ一番時間をかけねばならない。
だが、ブランド品としての英語が映えるのは、一足飛びに「美しい英会話」としてなのである。実はこれはバブル期の1980年代前後に流行したイメージだ。今、そのイメージが50代のバブル世代に再利用され、いつの間にか「スピーキングテストこそ大事だ」という流れになった。
これからも日本人は「英語ができない」
今回の早急な入試改革の推進派の中には、英語を社内公用語とした楽天の三木谷浩史社長もいる。三木谷氏をはじめ「学校英語は仕事では使えない」と批判する経営者がいるが、そもそも学校英語ではまず土台となり幹となる単語を学ぶのだから、当然、限界がある。あらゆる状況に即した単語を高校までに学べるわけがない。だから自分の必要に応じ、学んだ幹の上に継ぎ足す形で自ら単語数を増やす努力をする。「これからは即戦力のある実用英語だ」などという口車に乗せられて、形だけ「実用英語」風に仕立てた試験を受けても、肝心の基礎となる単語を身に付けなければ役に立たない。学校の授業以外の時間でたくさんの英語を聞き、読まなければだめなのだ。
他にも「話せる」ために必要なのは、状況の把握、他者に対する想像力、それからもちろん話す中身だ。ところが2020年に向けた今回の入試改革は、表層的に英語を話す練習さえすれば「話せるようになる」との誤ったメッセージを発してきた。実に無責任だ。むしろ「スピーキング」などという独立した技能はないと考えるべきなのだ。
英語教育に関わる重大な政策が、一部の人の思惑で推し進められたのは問題だが、それを許した私たちにも責任がある。こんなことでは、この先も日本人は「英語ができない」ままだろう。
(2018年5月21日 記)
バナー写真=英語のリスニング機器が配られる大学入試センター試験の会場(2018年1月13日、東京都文京区の東京大学[代表撮影]/時事)