日本人と英語(1):慢性的英語教育改革が招いた危機

社会

政府主導の「グローバル人材育成」の一環として、東京五輪が開催される2020年に “使える英語力育成” に向けた動きが加速し、小中高の英語教育、大学入試が大きく変わる。だが改革の根底にある発想に根本的な問題がある。

「コミュニケーションは会話」の発想は誤り

もちろん、外国語の4技能は大切だ。ただ、話すためには、英語を組み立てる文法も最低限は必要である。試合のルールを知らなければスポーツができないのと同じだ。さらに言えば、英語を使うために必要な文法や語彙は「読むこと」によって培われる。「読む力」が基礎となり、「聞くこと」や「書くこと」ができるようになり、その力を使って「話すこと」や「やり取り」が可能になる。買い物や食事など簡単な会話なら定型表現を暗記すればなんとかなるが、相手の主張を聞いて理解し、その上で自分の意見や考えを論理的に、説得力を持って話すには骨太の英語力が求められる。読めない、書けないでは内容のあるコミュニケーションはおぼつかない。

全ての技能の出発点であり土台である「読むこと」をおろそかにして、「コミュニケーションは会話」だという発想で改革を進めてしまったことが、中高生の英語力調査の結果に表れているのではないか。まさに危機的状況だ。

13年度に始まった前述の「英語教育実施状況調査」は、今回が5回目である。これが企業であれば、改革がうまくいかなかった原因を分析し、軌道修正するのが当然だが、成果が上がっていないのに、これまでの改革路線を20年度以降も突っ走ることになっている。

そろそろ、90年代から繰り返されてきた英語教育改革の在り方を再考するべき時が来ているのではないか。

異質性を学ぶ外国語教育

小中高合わせて12年間、大学を加えれば合計16年間もの長きにわたり、英語ができないと人生の落後者になるような空気の中で追い立てられたら、英語嫌いになるのが当然であろう。英語が好きな生徒もいれば、体育が得意な子もいる。さまざまな生徒や学生がいるのが自然であり、それが社会の多様性だ。しかも英語コミュニケーション能力は、民間試験の数値だけで判断できるほど単純ではない。検定試験のスコアは低くても世界で活躍している日本人はいる。コミュニケーションは人間力でもあり、自分が専門とする分野で秀でれば英語力は後からついてくる。

英語はあくまでも外国語の一つであって、英語ができなくても、それで人生おしまい、ということではない。外国語を学ぶことは、「異文化への窓」を持つことであり、異なる言語や文化を知ることは人生を楽しく豊かにしてくれる。英語の場合は、事実上の国際共通語であるから、世界への窓だとも考えられる。

これからの世代が、もう少し余裕を持って日本語とは異質な言語に向き合い、他者理解という異文化コミュニケーションの神髄を学んでほしいと切に願う。

(2018年5月21日 記/バナー写真=PIXTA)

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