「メディア五輪」=東京大会は最大限の「政治的効用」を目指せ

社会

佐藤 卓己 【Profile】

朝鮮半島の南北融和に向けた動きを演出した平昌冬季五輪。政治利用として批判されることも多い五輪だが、そもそも政治と切り離すことができるのか。メディア史を専門とする筆者が、歴史的な五輪の本質を振り返るとともに、メディア社会における東京大会の在り方を問う。

戦争の模倣としての「ナショナリズムの祭典」

平昌五輪の報道においても、「ナショナリズムの祭典」としての性格は前景化していた。例えば、銅メダルを獲得したカーリング女子のテレビ中継である。瞬間最高視聴率は驚異の42.3%に達しているが、「氷上のチェス」のルールを正確に理解した日本人は1%もいないはずだ。ほとんどの視聴者は競技のルールなど度外視して、日本チームの活躍に高揚感を味わっていた。この高視聴率にいろいろな意味付けをすることは可能かもしれないが、国民国家間の戦争を模した対戦ゲームの性格から目を背けるべきではない。

そもそも五輪とは文明的な「戦争の模倣」である。日清戦争勃発の1894年に、五輪「復活」を唱えてフランスのクーベルタン男爵は国際オリンピック委員会(IOC)を設立した。第1回の近代五輪はその2年後、ギリシャのアテネで開催された。古代ギリシャのオリンピア祭典も戦争と不可分なイベントだった。ホメーロス『イリアス』の「パトロクロスの葬送競技」によれば、それはトロイア戦争で死んだ親友パトロクロスの死を悼むためアキレウスが開催した競技会に由来する。その競技会開催中に参加選手を襲撃することを禁じた古代ギリシャの「聖なる休戦」をクーベルタンは理想化し、「平和の祭典」と称した。

もちろん、「休戦」とは戦闘の停止状態を意味するものであり、戦争の否定や不在を意味するものではない。当然ながら、愛国者クーベルタンが普仏戦争(1870〜71年)でドイツに敗れた屈辱感から自由だったわけではない。選手が「個人として」ではなく「国の代表」として参加する近代五輪は、その始まりからして「別の手段による戦争」と意識されていた。クーベルタンが母国フランスで開催した1900年の第2回パリ大会は、義和団事件による北清事変と重なっている。フランス、米国、英国、ドイツ、イタリア、オーストリア、ロシア、日本の8カ国連合軍が北京を総攻撃していた頃、連合国の選手たちはパリで優雅な疑似戦争に興じていたことになる。パリ大会での競技種目には、気球乗り、消火競争、綱引き、カーレース、タカ狩りから、極めつきの「ハト撃ち」さえあった。もちろん、ハトは「平和」の象徴である。

政治利用よりも「政治的効用」に注目

社会学者ノルベルト・エリアスによれば、スポーツそのものが、感情の制御が求められる近代社会で、感情表出のはけ口として創出された「文明化」の装置である。特に格闘技は、実生活で禁止された暴力欲求を代償的に昇華させる儀式として人気を博してきた。そのため選手の服装や動きは、あたかも宗教儀式のように細部まで規定されている。こうして制御された暴力は、野蛮ではなく文明の象徴なのである。

スポーツが暴力の文明化であれば、そこに戦争が投影されることはごく自然なことだろう。スポーツ報道では「前哨戦」から「決戦」まで戦争用語がいまも頻用されている。スポーツが人間の闘争本能をゲームとして昇華させることで、現実の戦争状態を回避させていると考えることもできよう。

このような疑似戦争としての五輪を「政治利用」だとして批判することは容易なことだ。むしろ疑似戦争が持つ「政治的効用」を確認することが必要なのではないか。20世紀の総力戦は双方が敵対者を「非人間」とみなし、敵を絶滅させるアウシュビッツやヒロシマの悲劇を引き起こした。2度の世界大戦中には五輪は開催されず、当然、五輪休戦も実行されていない。特に、日本人は幻の1940年東京大会を「休戦なき総力戦」(=第1次・2次世界大戦)の象徴として心に刻むべきだろう。

一方、どれほど政治的な「別の手段による戦争」であっても、スポーツそのものは敵の皆殺しを正当化する総力戦とは対極に位置している。繰り返し何度でもライバル(敵)と戦う可能性を否定しない疑似戦争ゲームだからである。戦場の破壊や殺りくが競技場のゲームで代替されるとすれば、それは十分に文明化の効用ではないか。

2020年東京五輪もそれが疑似戦争であることをリアルに認識した上で、最大限の文明化に「利用」する “デザイン力” が求められている。もちろん、それは「模倣」でもよいのである。東京大会が何を達成するための「政治的手段」となり得るのかを私たちはまず自問すべきではないか。

(2018年5月7日 記)

バナー写真:平昌五輪閉会式に入場する韓国・北朝鮮の選手団=2018年2月25日、韓国・平昌(代表撮影/時事)

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佐藤 卓己SATŌ Takumi経歴・執筆一覧を見る

1960年広島市生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授。専門はメディア史、大衆文化論。1984年京都大学文学部史学科卒業。86年同大大学院修士課程修了。87~89年ミュンヘン大学近代史研究所留学。89年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所・社会情報研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、2015年より現職。主な著書に『「キング」の時代』(岩波書店、2002年/日本出版学会賞受賞、サントリー学芸賞受賞)、『言論統制』(中央公論新社、2004年/吉田茂賞受賞)、『輿論と世論』(新潮選書、2008年)、『ファシスト的公共性』(岩波書店、2018年/毎日出版文化賞受賞)、『メディア論の名著30』(ちくま新書、2020年)等。

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