被爆米兵調査の森さん、初めての訪米で慰霊の旅へ
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2016年5月27日、広島への原爆投下から71年を経て、米国現職大統領として初めてバラク・オバマ氏が広島平和記念公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に花を手向けた。歴史的な演説の後に、1人の被爆者を抱き寄せた映像を覚えている人も多いのではないだろうか。
森重昭さん(81)は、1945年広島に投下された原子爆弾によって被爆死した米軍捕虜兵士12人の身元を丹念に調査してきた市井の歴史研究者だ。誰から頼まれたわけでもなく、何の見返りも考えずに私財を投入し、全員の遺族を探し出して戦死の状況を伝え、名前と遺影を原爆資料館に登録して弔った。森さんの長年の活動にスポットライトを当てたドキュメンタリー映画「ペーパー・ランタン(灯籠流し)」が米政府関係者の目に留まったことで、オバマ氏の広島訪問の際に献花式に招待されたのだ。
その森さんが、5月下旬に初めて米国を訪問する。被爆死した米兵の遺族とともに墓参し、国連での「ペーパー・ランタン」上映会に参加する。映画を製作したバリー・フレシェット監督が、森さんの40年以上にわたる平和のための調査活動の新たな1ページを開こうと、クラウドファンディングで渡航資金を集めた。渡米を前にした森さんに、これまでの研究や平和への思いについて聞いた。
——初めての渡米を決断した理由は。
森重昭 6人の被爆兵士たちが搭乗していた爆撃機の機長だったトーマス・カートライト中尉が2014年に亡くなりました。カートライト氏も捕虜になりましたが、たまたま尋問のために東京に移送されていて被爆を免れた人物です。カートライト氏とは、20年以上にわたって100通もの手紙を交わし、友情を温めてきました。04年には、カートライト氏が被爆米兵についてまとめた著書を私が邦訳するなどして、戦争の悲劇を伝える活動を共にしてきました。
カートライトさんをしのぶ会の案内をもらった時はどうしても出席したいと思いました。しかし、ユタ州の標高のかなり高い場所で、空港から2日がかりでないとたどりつけない。体力にも自信がなく、さらに、タクシー移動に頼らざるをえず宿泊費・交通費が350万円もかかることが分かり、泣く泣く出席をお断りした。そのことを今も、非常に残念に思っています。
被爆死した米兵を直接知っている妻やきょうだいの世代は、ほとんど亡くなってしまいました。唯一、ノーマン・ブリセットさんの妹のコニー・ブリセット・プロベンチャー さんが存命で、ボストンで暮らしている。彼女に会うことが今回の旅の目的の一つです。ノーマンさんが広島で戦死したことを伝えたことをきっかけに、コニーさんとの手紙をやりとりが始まり、それが、偶然にもフレシェット監督の知るところとなった。私の活動がドキュメンタリー映画となり、オバマ大統領の原爆慰霊碑への献花に立ち会うこともできた。
コニーさんは手紙に「兄の死は胸が張り裂けそうにつらいことです」と書いてきました。原爆がコニーさんにとってどんなにむごいことだったのか、私は分かっていますので、お会いして慰めてあげたいと思います。苦労の末にお兄さんの名前と遺影を原爆資料館に登録したことを伝えたら、喜んでもらえるのではないかと思います。
——12人の被爆兵士の身元を割り出し、全員の遺族と連絡をとった際にも、一度も米国には行っていないのですね。
森 私自身が被爆者であり、心臓に持病を抱えているので、そう簡単に米国行きを決断できませんでした。捕虜になった兵士の取り調べ調書も全て原爆で焼けてしまっていたので、調査は難航しました。わずかな手掛かりから兵士の名前が分かると、国際電話のオペレーターを通じて、電話帳のファミリーネームが一致する番号に上から順番に電話して、戦死者の名前に心当たりがないか一軒、一軒、尋ねたのです。時には、1カ月の電話代の請求書が7万円になることもありました。
——被爆者として、原爆を落とした米国に対して憤りの気持ちもあったのではないかと思います。それでも、被爆米兵のことを調べ、遺族に報告しようとした原動力は何だったのでしょうか。
森 僕は、爆心地から2.5キロくらいの場所で被爆しています。友だちと3人で橋を渡っている途中でした。想像もつかないような衝撃波と爆風で吹き飛ばされて川の中に落とされました。水草の生い茂った水深の浅い川だったし、運よく気を失わなかったので溺れずにすみましたが、周囲は真っ暗で、自分の手の指が10本あるか確認できないほどでした。なんとか土手をはい上がると、ふらふらと息も絶え絶えの女性がやってきて「病院はどこですか」と聞くのです。全身が血だらけで、体が裂けてしまっているような状態でした。そんな人が、後から後から何人も学校に来ました。そして、きのこ雲からは黒い雨が降ってきて、僕の体にも当たりました。雨が痛かった。これは、体験者でなければ分からないことです。当時、8歳でしたが、その日のことは全部、覚えています。
原爆が落とされる少し前まで通っていた済美(せいび)国民学校は、爆心地から540メートルほどの所にあり、その場にいた子どもたちと先生全員が真っ黒に焼け焦げて死にました。空襲が激しくなって「どうせ死ぬなら家族一緒がいい」と祖母が言い、僕は実家の近くの学校に転校したおかげで、辛うじて生き延びることができた。集団疎開の子どもたちを引率して学校を離れていて難を免れた済美の校長先生が、学校にアメリカ人の遺体が一体あったことを書き残しているのです。もし転校していなければ、僕もそこで死んでいたかもしれないと思うと、とても他人事とは思えなかったのです。
原爆投下の目標は広島市のど真ん中、相生橋でした。そこで、アメリカ人が死んだということを知って、何たる運命だろうと思いました。世界で初めての原爆でアメリカ人の捕虜が爆心地で命を落としたなど、誰も知らないことなのです。しかも、そのうち1人は相生橋で後ろ手に手を縛られて死んだのです。
遺族にとっては、自分の夫や息子が戦争に行ったまま帰ってこないのに、何があったのかということを一切知らされていない。でも、人間ならば、誰でも知りたいはずだと思いました。1人でもいいから、遺族を探し出して教えてあげたい、そういう気持ちで始めたことです。名前が分かった最後の1人の遺族に連絡をとった時には、遺族は危篤でした。「僕が代わりに申請書を書くわけにはいかないので、ご遺族に代わって、サインをお願いします」と隣人に署名を代筆してもらって、12人の兵士全員を原爆資料館に登録することができたのです。
——オバマ大統領が広島を訪れた際には、献花式に出席し、オバマ氏に抱き寄せられました。
森 実は、献花式の直前に米国大使館から招待の電話があり、「喜んで出席いたします」とお受けしました。でも、まさか県知事や市長よりも前の最前列が用意されているなど想像もしていなかったことです。
“ 71年前(Seventy-one years ago)” で始まったオバマ氏のあの素晴らしいスピーチに一生懸命耳を傾けました。「A dozen Americans held prisoner(12人の米兵捕虜)」このフレーズはもう覚えてしまいました。その後、「the man who sought out families of Americans…(亡くなった米兵の遺族を探し出した人がいた)」と続きました。英語が全部分かったわけではありませんが、そこだけは「僕のことだ」と分かったのです。
大統領と握手をし、何か言いたかったのですが、胸がいっぱいで思わず涙が出てしまいました。その涙を見て大統領が背中にあの長い手を差し伸べて、自分の方に引き寄せてくださったのです。言葉を交わしたわけではありませんが、気持ちは通じ合ったはずです。今でも僕はそう思っています。
今回の訪米で会うコニーさんの兄のノーマンさんは被爆死した時19歳でした。戦争がなければ、そんな若さで命を落とすこともなかったでしょう。戦争のむごさは言葉では言い尽くせません。体験者や犠牲者、遺族にとってこんな悲しいことはないのです。そう考えれば、原爆は二度と使われないように祈らずにはいられないし、戦争に反対するのは当たり前のことだと思います。
バリー・フレシェット監督は、クラウドファンディングで森夫妻初訪米資金を募集中。
>Click here to support Bring Mr. Mori to the USA organized by Barry Frechette
ペーパー・ランタンの予告編(trailer)
(バナー写真:ニッポンドットコムの取材に答える森重昭さん(81)と妻、佳代子さん(75))
取材・文・写真(特記なし)=ニッポンドットコム編集部
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