東日本大震災から7年:三陸南部の水産業回復、新世代漁業の試みも
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7年後にようやく新工場完成
全国的に冷え込みが強まった2月中旬、2011年3月に発生した東日本大震災の三陸南部の被災地を1年ぶりに訪れた。今回はまず、宮城県の仙台市方面から南三陸町へと車で向かう。途中、急カーブが続くリアス式海岸沿いの道を進むと、巨大な重機を使った国の防潮堤建設工事の現場を何度も通り過ぎた。
「7年かけてここまで来ました。うちは地元産の魚介類があってこそ成り立つ商売。なによりも、漁業が立ち直って材料が確保できるようになったのがうれしい」
南三陸町の水産加工会社「マルセン食品」社長の三浦洋昭さん(59)が、顔をほころばせた。震災後、かつての中心市街地に造成された台地に建設中だった店舗兼本社工場が17年9月に竣工し、工場の一部稼動を開始したばかり。3月中には店舗部分も合わせ、全面的にオープンする。
工場内では薄桃色の作業着を着た数人の女性従業員が、地元特産のギンザケの切り身にフライの衣をつける作業をしていた。町内の小・中学校の給食用だという。
「震災前も給食用のおかず作りを委託されていたのですが、本工場が出来たのでようやく復活できました」
同社は1933年にかまぼこ製造工場として創業し、三浦さんが3代目。震災では自宅、店舗、工場、作業場を含む9ヵ所の建物全てが津波で流され、同居していた祖母を失った。
海沿いに広がった町中心部が壊滅し、避難所や仮設住宅での暮らしを余儀なくされたが、その年の12月には、仮の加工場と中古車を確保して魚介類の移動販売を開始。当時は主に全国から届く支援の食料に頼るしかなかった地元の人に、生鮮品を届けてきた。その後、仮工場での操業を経て、ようやく総工費3億6000万円をかけた新工場の完成にこぎ着けた。自力再建により自宅を完成させたのも、つい1年前のことだ。
グレー系の外壁の真新しい自社工場を前に、三浦さんは意気込みを語った。
「自宅に続いて自分の会社も復活できましたが、町の人口が激減し、経営環境は厳しい。これからも地元の海産物を使った新製品の開発に積極的に取り組みます」
岩手、宮城の水揚げは震災前の水準に回復
親潮と黒潮の潮目がある三陸沖は世界三大漁場の一つと言われ、三陸海岸の基幹産業はいうまでもなく漁業や水産加工業だ。大津波が襲った岩手、宮城、福島各県の沿岸部では、港や漁船、養殖施設が破壊し尽くされた。それでも、原発事故の影響を受けた福島ではなお漁業が制限された状態が続いている一方、岩手、宮城の各市町では、ここ2、3年で港や漁業関連施設が相次いで全面復旧し、水揚げ高、水揚げ量ともに回復傾向にある。
南三陸町も同様だ。2014年度までには港や養殖施設の復旧がほぼ完了。漁船の9割が流出し、全国の漁協から船の提供を受けるなどして操業していた漁業者も、徐々に自前の漁船を手に入れて漁に出るようになった。町の統計によると、魚種や年度によってばらつきはあるものの、11年度に3042トンだった町全体の水揚げ量は、豊漁だった13年度には8566トンに急増。直近の数字を見ても、17 年の水揚げ量は前年比14%増の5928トン、水揚げ高は同23%増の22億1219万円となり、震災前の水準に戻っている。
町農林水産課の担当者も「漁業のハード面の整備は完了した。今後は人材育成をはじめとするソフト面が課題になる」と話す。
過密養殖を解消してカキの品質向上
町の担当者が指摘したとおり、漁業の維持・発展には後継者の確保が大きなカギとなる。そもそも、町の人口は震災前より約3割減っている。少子高齢化が加速する中、町は漁協や観光協会、県、国と協力し合いながら、町外からの移住希望者らを対象にした漁業体験プログラムを実施するなどして、少しでも漁業に関心を持ってもらおうと模索を続けている。
そんな中、漁業者の間でも新世代の漁業に取り組む動きが出てきた。その代表的な一人が、町内戸倉地区でカキやワカメの養殖業を営む後藤清広さん(57)だ。自身も津波で自宅、養殖施設が全壊してしまい、一時は「漁業の再開は無理か」と諦めかけた。だが、被災からわずか3カ月後の2011年6月、県漁協志津川支所戸倉出張所のカキ部会長に就任すると、国の漁業支援助成を得て、カキの養殖用いかだの過密解消に真っ先に取り組んだ。
「個々の漁業者が水揚げ量ばかりを追って過密化し、品質に影響が出ていたことは震災前から問題になっていました。津波の被害は甚大でしたが、地元の漁業を将来に渡って継承するために、全くのゼロから改革するよい機会だと思ったのです。過密をなくせば、カキに栄養が十分に行き渡り、海がカキの排泄物で汚れることもなくなるので、生育環境は大きく改善するのです」
それを実現するためには、古くから受け継がれてきた漁業権を再配分することが必要だった、既得権益が減らされることを危惧して反対する仲間もいたが、過密解消の利点を何度も説明して回り、約40人いるカキ漁師の合意をなんとか取り付け、いかだの数を震災前の3分の1以下に減らした。
その結果、カキの身の入り具合が格段によくなった。稚貝の育成開始から出荷までの期間は2~3年から1年に短縮され、生産コストが下がるとともに、いかだの数は減っても回転率が上がったため毎年の水揚げ量は横ばいを維持。漁業者の労働時間が2割ほど減る一方、逆に収入は単価が上がったことにより15~20%上昇した。
さらに、後継者のいる漁業者にはいかだの数を多めに配分するようにしたところ、就職や進学で町外に出ていた若者が次々と故郷に戻ってきたという。
「これまで子供に都会に出て働くことを願っていた親は、自信を付けて『これなら継がせたい』と思うようになっています。自分の漁場を確保して仕事をするチャンスを得られるようになった若者の方も、新しい漁業の手法に魅力を感じ始めているようです」
こうした努力が認められ、同出張所は2年前、オランダに本部を置く非営利団体「水産養殖管理協議会」(ASC)から、環境に負担をかけず品質を向上させた養殖業に対して与えられる国際認証(ASC認証)を日本で初めて受けた。これも「戸倉産カキ」のブランド化に大きく貢献している。
地元の若手漁師が漁業研修事業
南三陸町から南に車を走らせ、女川町と石巻市の海岸部に向かう。震災直後に沿岸を覆い尽くしていたがれきは既になく、港湾整備や盛り土した高台の整備も終盤に入っている様子だ。
女川町では、海産物の流通の要となる町地方卸売市場が2017年4月に全面供用を開始し、製氷・冷凍施設もここ1、2年で相次いで完成。漁業者も16年度までには自前の漁船を確保した。
町の調べによると、17年の水揚げ量は3万5619トンで、震災があった11年の1万9740トンの2倍近くになった。ここ数年を見ても、震災前の水準の7~8割まで回復している。「国の復興工事が本格化する前から、漁業者が自らがれきの撤去や港湾部の応急的な修復を行ったこともあり、立ち直るのは予想以上に早かった」(町産業振興課)という。
ただ、女川は津波による被害が他市町と比べても大きく、人口減少率は約4割と全国でもワーストクラスだ。漁業者も人口と同程度の割合で減っており、高齢化や担い手不足は南三陸と同様に深刻となっている。
共通課題である漁業後継者の確保を最大の目標に掲げて14年7月、女川や隣接する石巻市を含む三陸の若手漁師らが結成したのが、一般社団法人「フィッシャーマン・ジャパン」だ。本部は震災で3000人以上が犠牲になった中核都市の石巻市に置く。40人いる中核メンバーの多くが現役漁師で、本業と両立させながら、「カッコよくて、稼げる、革新的な」漁業を実現すべく魚介類の直接販売や通販、イベント運営、人材育成といった事業を幅広く展開する。
代表理事を務める石巻市北上町の阿部勝太さん(32)は、「浜に活気を取り戻すためには、人づくりが最も大切」だと強調する。
「漁師を育てるには10~15年かかります。今の主力の60~70代の漁師が現役でいるうちに漁業を改革して、次の世代に引き継いでいかなければなりません」
フィッシャーマン・ジャパンは設立して間もなく、石巻市の委託を受けるなどして、県内の漁業者から現場で漁や養殖の方法をじかに学ぶ「漁師学校」や漁業体験プログラムをスタート。2年前には漁業志望者向けの求人サイトも立ち上げた。これまでに県外の若者を中心に約100人がこうした事業や求人に参加・応募し、うち30~40人が就職。今も20人近くが、新米漁師として活躍しているという。
「就職先としての漁業への関心は、確実に高まっています。これからは就職後の定着率を上げることが課題。フィッシャーマン・ジャパンが率先して販路を開拓して漁業者の収入が上がる土台を作りつつ、やりがいや魅力を感じられるような新しい漁業をもっとアピールしたい」
阿部さんは明快な口調でこう説明し、次の目標を見据えているようだった。
三陸海岸では、仮設住宅に住む町民、市民がまだ大勢いる。そうした人々に本宅を確保してもらうための公営住宅の建設のほか、道路、医療・福祉施設、行政機関といった社会基盤の整備はなお重要だ。だが、やはりこの地は水産業が元気になって初めて、本当の復興に近づくことができる。逆境の中で立ち上がった水産業者たちのたくましさこそが、その原動力になるはずだ。
バナー写真:南三陸町の志津川湾。港湾施設がすっかり再建され、湾内にはたくさんの養殖のいかだが浮かぶ
(写真はいずれも菊地正憲氏撮影)