なぜデフレ脱却ができなかったのか:黒田日銀の5年を振り返る
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異次元緩和から学ぶべきこと
日銀の黒田総裁による異次元金融緩和の開始から間もなく5年になる。日銀は2%の消費者物価上昇を目標として掲げ大規模な量的緩和やマイナス金利政策を実施してきたが、現状、消費者物価上昇率(除く生鮮食品、エネルギー)は前年比0.3%(2017年12月)であり、デフレからの脱却を果たせていない。しかし5年間の緩和を通じ、デフレ発生の仕組みについて新たに見えてきたことは少なくなく、デフレ脱却に向けて今後何をすべきかも明らかになった。以下では企業の価格設定行動の視点から物価の現状を整理する。
硬直価格がデフレ脱却の足かせ
デフレ脱却のカギは何か。異次元緩和が始まった5年前にこの質問を何度も受けた。質問者の多くは、需要の不足がデフレの原因であり、需要さえ喚起できればデフレ脱却できる、問題は金融緩和で十分な需要喚起ができるかどうかだと考えていた。しかし物価は需要だけで決まるものではない。供給サイド、つまり価格を決める人たちの行動が物価のもう一つの決定要因だ。当時の日本で需要が不足していたのは間違いないが、それ以上に深刻なのは値決めをする人たちの行動だと筆者は考えていた。当時この認識は異端であったが、今では日銀を始め政策担当者の多くが共有する認識となっている。
筆者が供給サイドに注目したきっかけは、フィリップス曲線の変化である。物価上昇率と失業率の間には、失業率が下がる(上がる)と物価上昇率が上がる(下がる)という負の相関があり、フィリップス曲線と呼ばれている。日本でもかつては物価と失業率の間に負の関係が観察されていた。しかし2000年以降、その関係が非常に弱くなり、失業率が変化しても物価はごくわずかしか変化しないというように変わってしまった。例えば、リーマンショック直後には、需要が弱くなって失業率が大きく増えたが、物価はさほど下がらなかった。異次元緩和の5年間はこの逆で、失業率が足元3%を切るところまで改善したにもかかわらず、物価は上がっていない。
物価の反応が鈍くなったのはなぜか。その背景には価格の硬直化がある。消費者物価指数は典型的な消費者が購入する約600の品目(例えば「シャンプー」「理髪料」など)から構成されている。各品目について前年比の変化率を算出した上で、その値がゼロの近傍にある品目の消費金額が全体のどれだけに相当するかを計算した(図1を参照)。
ゼロ近傍の品目は価格が硬直的な品目ということだから、そうした品目がどの程度の割合を占めるかは価格硬直性の尺度だ。1990年代末から価格の硬直性が高まり、ゼロ近傍の割合は5割に達した。その状態が2013年4月の異次元緩和開始後も基本的には続いている。17年半ば以降、ゼロ近傍の割合が低下の方向にあるが、改善のピッチは緩やかであり、今なお半数近くの品目がゼロ近傍にある。
価格硬直化の原因の一つは趨勢(すうせい)的なインフレ率の低下である。インフレ率が趨勢的に高い国で、ある企業が価格を据え置くとすると、ライバル企業に比べて価格が安すぎて損をしてしまう。従ってそういう国では企業は価格を据え置くことはせず、頻繁に価格を改定する。これに対して趨勢インフレがゼロに近い日本のような国では、価格を据え置いたとしてもそれで損を被ることはないので、多くの企業が価格据え置きを選択する。この理由で価格が硬直化しているのであれば、趨勢インフレさえ元に戻れば硬直化も自動的に解消されるので問題ない。
しかし、日本の価格硬直化の理由はこれだけではない。日米を含む先進8か国の品目別価格データを用いて筆者らが行った国際比較によれば、日本の価格硬直性は米国などと比較して図抜けて高く、しかも、日本の趨勢インフレが低い分を調整してもなお高い。
価格据え置き慣行のまん延
では日本の価格硬直化の原因は何なのか。価格上昇率を品目ごとに計算しその頻度分布の最頻値を推計すると、日本はゼロであるのに対して米国などでは正で、多くの国で2-3%の水準にある。この傾向は趨勢インフレの影響を調整しても変わらない。つまり、米国などでは企業が毎年価格を2-3%で引き上げるのが「デフォルト」(初期設定)であり、そうした企業が多数派なのに対して、日本では価格据え置きが「デフォルト」であり、この差が日本の高い価格硬直性を生んでいる。
1995年ごろに始まったデフレが社会に定着する中で、消費者は価格が据え置かれることを当然と受け止め、わずかな上昇も許容しないという行動をとるようになった。消費者の姿勢がこのように変化する中で、企業は自分の価格を少しでも上げれば顧客が大きく減ると恐れるようになり、コストが多少上がっても我慢して価格を据え置くという行動をとるようになったと考えられる。
価格据え置き慣行は商品の小型化という歪んだ現象を生み出している。昨年秋以降、「くいもんみんな小さくなってませんか日本」というハッシュタグがSNSで話題になり、表面上の値段は据え置きだが容量が小型化した商品の報告が相次いでいる。実質値上げである。図2は商品のリニューアル時におけるサイズの変化を数えたものである。実質値上げは穀物やエネルギーの輸入価格が上昇した2008年に急増した。この時は、価格据え置きの慣行がまん延する中で、企業はコストの増加を価格に転嫁できず、苦肉の策として容量減を選択した。経営者にとって価格据え置きは動かすことのできない制約であり、その制約内でとれる選択を探した結果、小型化に行きついたということであろう。
小型化はその後いったん減ったが、13年から15年にかけて再び増加した。この時期は異次元緩和で円安が進んだ時期であり、輸入原材料コストの上昇を価格転嫁できない企業が小型化に向かったと考えられる。足元では非正規雇用を中心に人件費が増加するなどのコスト増が起きているが、それを価格転嫁できず苦しむ企業が増えている可能性がある。
デフレ脱却に向けた課題
デフレ脱却に向けて最大の課題は、価格据え置き慣行をいかにして変えるかだ。価格据え置きは放置しておけば自然になくなるというものではなく、むしろ今後、デフレ経済しか経験したことのない若年層が社会の中核的な役割を担うようになるにつれ、社会により深くビルトインされる可能性が高い。価格据え置きという制約内で経営の解を探すことを続けていると、日本経済の活力はますます弱まってしまう。
価格据え置き慣行の源泉をたどると、安ければ安いほどよいという消費者の姿勢に行きつく。しかし、価格引き上げでぼろもうけというのは論外として、原価が上昇したときにその分を価格に転嫁するのは企業経営者として適切な行為であり、フェアなプライシングだ。消費者がそれを許容しないのは明らかに行き過ぎであり、企業経営をゆがめてしまう。消費者は立場を変えれば労働者であり、価格据え置き慣行が続けば労働条件が悪化するなど不利益を被ることを忘れてはならない。
企業側は、価格転嫁について消費者の理解を得る努力をすべきだ。昨年秋のヤマト運輸に続いて宅配便各社が値上げに踏み切ったのは、価格転嫁の成功事例だ。成功の背景には,トラック運転手の不足など現場の負担の大きさを消費者が理解し,負担軽減のための値上げに共感したことがあると言われている。コスト増を価格転嫁できない苦しさを内に秘めてこっそり商品を小型化する企業の対極ともいえる。フェアな価格とは何かについて健全な常識を取り戻せるか否かがデフレ脱却のカギを握っている。
バナー写真:消費税増税時、スーパーの店内に掲げられた価格据え置きキャンペーンのポスター=2014年4月1日、東京都江東区のイトーヨーカドー木場店(時事)