四大公害病:高度経済成長期の負の遺産
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後手後手に回った国の公害認定
富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病が1968年5月に公害病と認定されてから、今年で50年を迎える。イタイイタイ病とは、三井金属鉱業の鉱山や製錬工場から排出されたカドミウムが川に流され、生活用水や農作物などを通して身体に取り込まれて生じた病だ。腎臓障害から骨軟化症を発し、全身に針で刺されたような激痛が走る。漁業被害などの記録は30年代からあったが、開業医が人の病に気づいたのは46年。国が鉱業会社と病の因果関係を認めたのは、それから22年がたってからだった。被害者らが同社に損害賠償請求訴訟を提訴した2カ月後のことである。
イタイイタイ病は、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと合わせて「四大公害病」として記憶されることとなった。
水俣病は、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(以後、チッソ)が32年からアセトアルデヒド生産工場の排水を海に垂れ流し、そこに含まれていた水銀が生じさせた病だ。56年にその発生が公式に確認された。食物連鎖を通じて地元の魚介類を食べる人々が発症。死亡、麻痺(まひ)、けいれん、視野狭窄(きょうさく)、聴力障害、手足の感覚障害といった人体被害に加えて、地域社会による差別が被害者とその家族を苦しめた。
新潟水俣病は、水俣病の原因究明と対策が先延ばしにされる中、65年に発生が認められた第2の水俣病だ。昭和電工が阿賀野川中流、新潟県鹿瀬町で稼働させていたチッソと同様のアセトアルデヒド生産工場からの排水が原因だった。
しかし、国が2つの水俣病の発生源を公式に認めたのは68年9月だった。
四日市ぜんそくは、59年に操業を開始した三重県の四日市コンビナートから排出された大気汚染による健康被害だ。コンビナートにある13社の煙突から吐き出される亜硫酸ガスが、気管支喘息(ぜんそく)、喘息性気管支炎、慢性気管支炎、肺気腫など呼吸器疾患を発症させた。そのうちの6社、すなわち石油精製を行う昭和四日市石油、石油を原料に2次製品から最終製品を製造する三菱油化、三菱モンサント化成、三菱化成工業、石原産業、そして石油火力で発電を行う中部電力が訴えられ、72年に共同不法行為が裁判で認定された。
企業利益を優先し、被害を拡大させた政府
日本の高度経済成長期、重化学工業化が進んだため環境汚染が拡大し、経済の繁栄と引き換えに公害で苦しむ多くの患者を生み出すことになった。そして四大公害病は、私たちに忘れてはならない3つの教訓を残した。
第1に、生物が発する警告は注意深く受け取らなければならない。
四大公害病では人間よりも先に動植物が被害を受けた。水俣病や新潟水俣病では魚が、イタイイタイ病では鉱山周辺の木々や河川下流部の稲、魚が、四日市でも魚が汚染されていた。
第2に、原因究明や対策を先延ばしにして、被害を拡大させてはならない。
例えば水俣病では、1952年に魚の大量斃死(へいし、突然死)事件が起きた時に工場排水の成分分析は行われず、4年後に患者が発生した。翌57年には、熊本県が食品衛生法に基づいて漁獲を禁止しようとしたが、厚生省(現・厚生労働省)は「すべてが有毒化しているという明らかな根拠がない」と法律を運用させなかった。
その厚生省が58年にチッソを汚染源と特定すると、チッソは否定。排水口を水俣湾内から湾外に変更して、より広い不知火海沿岸に被害を拡大させた。
通産省(現・経済産業省)は排水先の変更に気づいていたが、チッソに対して排水停止命令を出さず、59年に排水口を水俣湾内に戻させただけだった。この年、チッソ水俣工場付属病院の医師は、ネコを使った動物実験により原因は工場排水に含まれていた水銀であると突き止めた。しかし、実験結果を公表しなかった。
熊本大学の研究班も原因物質を特定、厚生省の食品衛生調査会の部会がその結論を支持した。しかし、その部会報告を通産相が「結論は早計」と受け入れず、結論を支持した部会の方が解散させられた。業界団体である日本化学工業協会は、過去に否定された爆薬原因説などを持ち出して水銀説を薄めた。
同年11月には国会議員団が初めて現地調査に訪れ、漁民や患者家族によるデモ隊が出迎え世論を高めた。しかし、12月にチッソは浄化装置を完成させ、汚染収束を演出した。ただし、この浄化装置に水銀の除去機能はついておらず、その後も汚染はチッソが水銀使用をやめるまで続いた。人々がそのことを知らされたのは1985年の法廷においてだった。
残酷にも母親の胎盤を通して水銀被害を受ける水俣病の存在が確認されたのは、汚染収束が演出された3年後の62年だ。脳性小児まひで死亡したと思われた5歳児の解剖で有機水銀が検出されて、疑われていた胎児性水俣病がこの時に証明された。
政府がついに水俣病の汚染源と原因を認めたのは、アセトアルデヒド生産の他の製造方法が確立し、水銀が不要となった68年だった。国は結論を先延ばしにして最後まで企業利益を優先し、被害を拡大させた。
巨大企業に立ち向かった支援者たち
第3に、被害者に寄り添う第三者や司法の役割を重視し、補償の制度設計には当事者の声を反映させなければならない。
巨大企業に立ち向かい被害者に寄り添ったのは国ではなく、苦しむ患者を助けようと立ち上がった弁護士や学者、医師などの支援者だった。彼らは企業の責任と不法行為を明らかにして補償を求める裁判を被害者と共に闘った。公害病裁判で初勝訴したのは新潟水俣病患者で1971年9月。四日市ぜんそく患者は72年7月、イタイイタイ病患者は翌8月、水俣病患者は73年3月に勝訴。どの裁判でも、一部の患者が勝ち取った勝訴判決をもとに企業と交渉し、被害者全体の補償に反映させた。
こうした一連の行動が73年9月の公害健康被害補償法制定につながった。この法律によって、被害者が裁判に訴えなくても迅速に補償が受けられる道が開けた。ところが国が同法による診断基準を厳しくし、被害地域を限定したため、認定を申請しても却下される「未認定患者」を多く生み出してしまった。
その結果、認定された水俣病患者は2000人強だが、未認定患者を入れれば2万人を超える。また、差別などを恐れて認定申請を行わなかった「未申請患者」も存在し、今日に至る。認定新潟水俣病患者は700人強だが、未認定患者はその3倍以上存在する。認定イタイイタイ病患者は200人弱だが、骨軟化症までには至らないカドミウム腎症を含めた要観察者は400人弱存在する。したがって、この3公害では認定を巡る訴訟も数多く起き、認定基準の見直しが求められてきた。
一方、認定四日市ぜんそく患者は2219人だが、その後、同法に基づき、大気汚染地域として東京都、大阪府、神奈川県、千葉県、愛知県、兵庫県、静岡県、福岡県、岡山県にある41の地域が指定された。しかし88年になると「改善の方向にある」として解除されたため、その後も千葉市、西淀川区、川崎市、倉敷市では、大気汚染の原因企業に対する損害賠償請求訴訟が続いた。
92年に開催された国連環境開発会議では、「環境と開発に関するリオ宣言」が採択された。世界中で起きた環境汚染から得た教訓の結晶だ。四大公害病の教訓も、第15原則「深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない」などに反映されている。いわゆる予防原則だ。
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、福島第1原発事故が起きた。それから7年半がたったが、子どもの甲状腺がんについての議論をはじめ、問題は山積している。日本社会は四大公害病から得たさまざまな教訓から何かを学んだと言えるのだろうか。
バナー写真:イタイイタイ病訴訟の控訴審判決後の会見で、今までの苦労に涙する原告側患者=1972年8月9日、石川県金沢市 (時事)