人手不足なのに賃金が上がらない本当の理由とは

経済・ビジネス

人手不足になれば賃金が上がるという経済学の「常識」が崩れている。政府が言うように設備投資不足が原因なのか。筆者は高齢者の非正規労働市場参入、企業の労働者への能力開発の不足といった要因を指摘。賃上げに向けた第一歩として「労働者はボーナス増加へ声を上げるべきだ」と提案する。

止まらない人手不足

公共職業紹介機関「ハローワーク」が把握する、求職者数に対する企業の求人件数を意味する有効求人倍率は、世界不況後の2010年以降上昇を続けてきた。最新の17年5月には1.49倍と、3件の求人に対し、2人しか採用できない人手不足となっている。完全失業率も23年ぶりに2%台の低水準を記録するなど、雇用のリストラや「就職氷河期」(バブル崩壊後の1993年~2005年)と呼ばれた人手余りの時代は、遠い過去にすら感じられる。

経済学の教科書を読むと、人手不足になると賃金が上昇すると書かれている。日本でも人手不足が賃金増加を生み、結果的に物価も上昇、長引くデフレも終焉(しゅうえん)が期待されてきた。だが、人手不足が続いているにもかかわらず、賃金には一向に上がる兆しが見られない。バブル崩壊後の1993年以降、実質賃金はほぼ横ばいのまま推移し、人手不足が深刻となった最近は、むしろ減少する状況すら生じている。

そうなると賃金が上がらない理由が気になる。多くのエコノミストは、非正規雇用の増加にその原因を求めてきた。今や雇用者の約4割を正社員以外が占めるなど、非正規雇用は多くの職場にとって欠かせない存在となった。正社員に比べて賃金が低い非正社員が増えたことで雇用者全体での平均賃金が下がったと、彼らは主張する。

ただ非正規雇用が増えた理由が求人の増加だとすれば、非正社員の賃金は増えてもよさそうなものだが、そこでも顕著な上昇は見られない。さらに新規学卒者の採用内定率が急上昇するなど、正社員の求人も着実に増える一方で、正社員の賃金も伸び悩んだままである。どうやら賃金が上がらないのは、非正規雇用が増えたという理由だけではないようだ。

政府見解は設備投資の不足

政府は7月21日に2017年度の経済財政白書を公表し、賃金が上がらない要因は企業の投資不足にあるとの見方を示した。

マクロ経済の観点では、名目賃金(現金給与)の実質的な購買力を示す実質賃金は所得の労働者取り分である労働分配率、労働が生み出す付加価値である労働生産性、そして消費者物価に対する生産者物価を意味する交易条件に分解される。このうちバブル期に比べて大きく落ち込んでいるのは労働生産性であり、生産性ひいては賃金を上げるには設備投資の増強が必要というのが、政府の見立てのようである。

だとすれば今後は投資を加速するため、不況期にも目立った効果のなかった設備投資に対する補助金や減税などの政策実施の他、日本銀行に対する低金利政策の継続要請を政府は強めるかもしれない。だがその結果、投資が増えたとして、政府のもくろみ通り、賃金は本当に上がっていくのだろうか。

賃上げは労働供給次第

今年4月、筆者が企画・編集した『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶應義塾大学出版会)が出版された。海外の経済学雑誌に専門論文を掲載している労働経済学者や、労働政策に関連する業務に携わる実務家など総勢22人が、それぞれの立場から賃金が上がらない理由を解説している。思いがけず多くの反響を得た同書の内容を踏まえながら、設備投資の増加が本当に賃金上昇に結び付くのかどうかを考えてみたい。

新たな設備投資は、1人の労働者が生み出す付加価値を高める環境の整備につながり、ひいては労働生産性の上昇が期待される。そうなると企業は労働者を追加して採用すれば利潤がもっと増えると考え、労働需要はさらに増加する。つまり設備投資が増えれば、企業はますます雇用を求めるようになり、そこまで人手不足に追い込まれれば、さすがに企業も賃金も上げざるを得なくなるというシナリオだ。

だが、どんなに労働需要が増えたとしても、それがどれだけの賃金上昇につながるかは、労働供給の在り方に依存するというのが、経済学の考え方である。もし多少賃金が上がったとしても労働供給が全体としてあまり増えないとする。その場合、一定程度の労働供給を確保するには、かなり大幅な賃金増加を企業は提示しなければならず、賃金は上昇していくだろう。

反対に、わずかに賃金が上がっただけで、一気に労働供給が増えるような状況ではどうだろう。企業はあまり賃金を積み増さなくても大量の労働を供給してもらえるため、賃金は結果的にはそれほど上げずに済むことになる。

高齢者の非正規雇用への参入

実際、若年や男性に比べて、高齢者や女性の労働供給は賃金の変化に対して敏感に反応する(経済学用語を使えば「賃金弾力性が高い」)と言われている。政府は「一億総活躍社会」をキャッチフレーズに、高齢者や女性がもっと働くことを求め、事実、就業率は高まってきた。その結果として、日本の労働供給は全体として以前に比べて賃金弾力性が高まっている。だとすれば、設備投資によって労働需要が増えたとしても、主に増えるのは高齢者や女性の雇用量であり、賃金は依然としてあまり増えない事態が続く可能性は大きい。

これまで賃金が上がらなかった背景としても、正社員を引退した「団塊の世代」を含む大量の高齢者が非正社員の労働市場に参入したことの影響は大きかった。年功的に高い賃金を得ていた正社員が退出すれば、全体の平均賃金はそれだけでも下がる方向に作用する。さらに大量の高齢非正社員の供給圧力は、人手不足が追い風となって上がるはずだった若年非正社員の賃金にも水を差す。

非正規高齢者の労働供給の増加が止まらない限り、設備投資で労働需要が増えても、賃金の伸び悩みは当面続くだろう。

OJTに基づく能力開発の衰退

さらに設備投資が労働生産性の向上につながるためには、もう1つ重要なカギがある。それは労働者の能力開発である。

高度成長期には、製造現場などで資本増強による急速な技術革新が普及した。進学率も当時はまだ高くなく、専門的な知識を持たない労働者は、職場で試行錯誤を重ねながら、新たな技術に対応していく。その対応を支えたのが、「オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)」に基づく能力開発だった。そして長期にわたる能力開発を促すために定着したのが終身雇用の慣行であり、能力開発の積み重ねを評価する仕組みとして確立したのが年功賃金だった。高度成長期にも、設備投資があってすぐに労働生産性が上がったわけではなく、背後には職場での懸命な能力開発があったのである。

ところが、今や日本の最大の労働問題とは、職場における能力開発の無残なほどの衰退である。ひとくちに人手不足といっても誰でもよいわけではなく、企業が本当に求めている人手とは、新しい時代状況の変化に的確に対応できる人材であることが多い。ただ今後の変化や不確実性に対応するには、職場での一定の能力開発が必要なのだが、そんな余裕はないと多くの企業は口をそろえる。外部から能力を持った人材を採用したいと考えているが、どこも能力開発をしないため、そんな人材は永遠に不足したままだ。

そんな能力開発に対する「フリーライド(ただ乗り)」の状況がまん延している限り、人手不足なのに賃金が上がらない状況は今後も続く。

残る「就職氷河期」の影響

能力開発の衰退が特に深刻なのは、30代後半から40代前半の大学卒業時に「就職氷河期」を経験した世代である。40代前半の大卒者の月給は、就職氷河期世代の場合、先輩であるバブル採用世代に比べて、平均すると約2万3000円も低い。氷河期世代では転職も一般的になり、勤続年数が短いことや中小企業で働く場合が増えたことが賃金を押し下げている。加えて氷河期世代には、20代の頃に職場で十分な能力開発の機会がなかったという声も多い。働き盛りの人々の賃金が伸び悩んでいる背景には、就職氷河期以来の能力開発の衰退が色濃く影を落としている。

さらに設備投資が賃金にもたらす影響を考えるには、投資の内容にもっと目を向ける必要がある。政府は90年代に比べて労働生産性が低下したと指摘するが、当時の生産性向上を支えたのは、職場でのコンピューターと情報技術(IT)の普及だった。その際、新技術の導入により賃金格差が米国では深刻化する。新技術に対応可能な高スキルの人々は賃金が大きく上昇する。一方、対応力の乏しい低スキルの人々は賃金が低下するといった、勝ち組と負け組への二極化が進んでいった。

今後の設備投資による技術革新には、ごくひと握りの勝ち組を除き、大部分の雇用が負け組となる危険性を孕(はら)む。これからの設備投資は、人工知能(AI)とロボットの職場への本格導入に向かっていく。能力開発によりAIやロボットを縦横無尽に使いこなせる一部の人々だけが高収入を獲得する。残りの大部分は雇用機会を代替されるか、低賃金の仕事に就くしかない。そうなれば投資で賃金は上がるどころか、さらに下がることにもなりかねないのだ。

賃下げを嫌い賃上げには執着しない傾向

このように、設備投資が増えれば賃金は上がるというシナリオに私自身は懐疑的である。それよりもっと労働市場の構造に目を向ける方が賃上げのヒントは見つかると思っている。

『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』は16章から構成されるが、うち4章で言及されたのが、賃金の「下方硬直性」と「上方硬直性」の密接な関係だった。労働者は賃金が現状の水準から下がることを嫌い、下がると働く意欲などにマイナスの影響を及ぼすことが、日本に限らず知られている。反対に、賃金が下がらないのならば、賃金が上がることにはそれほど執着しない傾向もあるという。

そのとき、現在の人手不足に対応すべく企業が賃金引き上げを考えたとしよう。一方で先行きの見通しに不確実性が大きく、業績悪化のために人件費カットに迫られる事態も予想される。このとき、いったん賃金を増やすと、将来の不測の事態でも再び賃金を下げることが困難となり、企業の存続すら危ぶまれる。そのため人手不足であったとしても、賃金を上げることを企業はどうしても躊躇(ちゅうちょ)してしまう。実際、過去10年に1度も賃金を下げなかった企業は賃金を上げることもなく、反対に頻繁に賃下げを実施した企業は賃上げにも積極的というデータも、本では紹介されている。

労働者の心理によって賃金の動きが制約される場合、財政政策や金融政策によって賃金を上げるシナリオは、ますます成立しにくくなる。

ボーナスをもっと要求せよ

だとすれば、賃金を上げる手だてはないのだろうか。確かに賃下げを労働者が嫌う傾向はあるが、それは毎月の給料支払いに限られ、ボーナスには当てはまらない。月給は安定的に維持する。一方で人手不足に対処すべく労働者のさらなる頑張りを期待するなら、まずは一時的にせよ、ボーナス増加で報いるのが先決だ。反対に今後業績が悪化し、人件費を調整する必要が生じた場合は減らすことを認めるなど、ボーナスにもっとメリハリをつけていい。

その交渉過程を通じ、労働市場の需給変動に対し年収を調整できる仕組みを整えるのだ。企業別組合が力を持っていた時代には、労使合意を基にボーナスはもっと柔軟に支払われていた。それが日本の失業率を低水準にとどめたという指摘もある。

日本経済新聞が行った2017年夏のボーナス調査では、人手不足が深刻な非製造業において、前年比5.5%増で27年ぶりに5%を上回った。今冬に向け、さらなるボーナス増加を労働者は要求すべきだ。

日本の労働者は働く報酬に対し、あまりにおとなし過ぎる。賃上げは、労働市場の神の見えざる手に導かれて、自然と実現するものではない。労働者の結束による発言(ボイス)の強化が今こそ問われている。

(2017年7月25日 記)

バナー写真:2017年春闘終盤を迎え、気勢を上げる全トヨタ労働組合連合会の代表者集会参加者たち(17年3月9日愛知県豊田市/ 時事)

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