「戦後家族の理想像」としての皇室と衰退する日本の家族

社会

戦後、皇太子と美智子妃の恋愛結婚、その家庭生活は国民の理想となった。家族の在り方が多様化し、理想の家族像が持てない今の日本で、天皇の生前退位のお気持ち表明を家族論の視点から考察する。

家族社会学を専門にしていると、天皇一家のご様子も、つい家族社会学者の目で見てしまう。今年8月の生前退位のお気持ち表明も、以前述べられた葬儀や陵墓の簡素化に関するご意向も、少子高齢化が進む日本家族の在り方の先取りとみることもできる。

明治時代以降、天皇一家の生活の在り方は、日本家族のモデルとして機能してきた。そこで、天皇から見た日本家族の変遷、そして、将来の姿を考察してみよう。

皇族の間で一般的だった血族婚

今から1400年くらい前、天皇権力が確立していった時代(6~7世紀の飛鳥時代)から始めよう。当時は、一夫多妻であることはもちろん、皇族や豪族の間では、血族結婚が一般的であった。天武天皇は、兄である天智天皇の娘たち(姪)を妻にし、その1人、持統天皇が女帝として即位する。そして、持統天皇の息子(草壁皇子)は天智天皇の娘の1人(後の元明天皇)、つまり叔母と結婚している。さらに、兄妹(姉弟)でも異母であれば結婚ができた。現在、きょうだい、叔父叔母との結婚は禁止されるようになったが、「いとこ」との結婚が許されているのは、そのなごりである。

また、当時から平安時代(12世紀)にかけては、皇族や貴族の間では、「妻問い婚」が行われていた。男性が結婚相手の女性の実家に通い、子どもが産まれれば実家で育てる。一夫多妻であれば、男性は複数の家に順に通うわけである。男性の地位が上がると、男性は一家を構えて、妻子を引き取る(複数のこともある)。その様子は、11世紀の紫式部の手になる『源氏物語』に詳しく描かれている。

柔軟かつ多様だった庶民の「結婚」

貴族が弱体化し、武士(軍人)が政権を担うようになる鎌倉時代以降には、「妻問い婚」が廃れ、「嫁取り婚」、つまり、女性は結婚と同時に夫の家に同居するというスタイルが普及するようになる。つまり、日本の直系家族、「イエ」の始まりである。これは、中国の儒教の影響を受けたとされるが、娘に婿を取ったり、子どもがいない場合は夫婦養子を取ってイエを継がせるなど、血縁にこだわらない家族形成がなされていた。また、欧米と違って離婚も認められていた。

武士や貴族と違って、庶民の家族や結婚の形はもっと柔軟かつ多様だったと考えられている。江戸時代には、東北地方農村部の離婚率は約5割と現在の米国並みに高かった。日本の西南部では、「足入れ婚」といって試験的に女性が男性のイエに入り、家風に合わなければ結婚せずに別の嫁ぎ先を探すということも行われていた。また、鹿児島地方では、隠居制があり、子どもが結婚と同時に親夫婦は隠居して、別の世帯を構えるということが行われていた。今でも、鹿児島県で核家族率が高いのはそのなごりである。庶民の間では「夜這い」の習慣があるところが多く、自由に婚前の男女関係を楽しんでいた地域もあった。

このように、明治維新までの日本の家族の慣習は、時代、階層や地域によって多様であり、1つの家族形態をとって、これが日本の伝統的家族ですと言うことはできない。

明治維新と「イエ」制度の成立

明治維新後、日本で近代化がスタートする。それとともに、近代日本に適合的な家族の在り方が模索されることになる。その中で、天皇一家のライフスタイルが前面に出てくることになる。例えば、明治天皇は、断髪し洋装で表に出るようになった。当時、皇后は洋服を着るのを嫌がったという話も残っている。つまり天皇の衣食住の在り方が、人々が見習うべきモデルとなったのである。

そして、98年の民法制定にあたっては、日本の家族の在り方を巡って大きな議論が起きた。基本的には、江戸時代の武士の家をモデルとして「家長」の権力が強く、財産処分や子の結婚、離婚などは家長の権限とされた。イエの都合で嫁が一方的に離婚させられることもよくあった。一方、欧米のキリスト教に基づく近代文化を導入することも求められた。例えば、江戸時代までの日本社会では一夫多妻が認められていたが、キリスト教は厳格に一夫一妻で、原則離婚を禁じている。また、それまで日本には中国や韓国と同じく夫婦別姓が慣習としてあったが、欧米では夫婦同姓を規定していた。その中で、妥協の産物として、妾の子に家督相続を認める規定が盛り込まれる一方、欧米に倣って夫婦同姓を強制する規定などが、民法に盛り込まれたのである。

戦後家族のモデルとなった皇太子一家

1945年の敗戦後、大日本帝国の価値観が失われた。その時に、新たに日本人の心の拠り所となったのが、「豊かな家族生活」であった。それも、伝統的なイエではなく、夫が外で働き、妻が家で家事、育児にいそしみ、豊かな生活を築いていく。これは、当時の米国やヨーロッパで一般的な家族の在り方であった。これを「戦後家族モデル」と呼んでおこう。そして、その豊かな家族生活のモデルの1つとなったのが、新しい皇太子一家だった。

59年、当時の皇太子殿下(現平成天皇)が正田美智子(現皇后)さんと結婚し、翌年浩宮殿下(現皇太子)が誕生し、一家を構える。それは、まさに当時欧米で一般的であった「核家族」であった。

ご成婚当時は、見合い結婚はまだ多数派だった(57年、見合い54.0%、恋愛36.2%、「2015年出生動向基本調査」)。恋愛結婚が見合いを上回るのは、65年ごろである。お二人の結婚は、「テニスコートの恋」といわれたように、軽井沢のテニスコートで出会い、お互いが好きで選び合った恋愛結婚であることが強調された。恋愛結婚することが国民の憧れとなったのである。皇族も愛情に基づく恋愛結婚をしたという報道は、これから恋愛をしたいという若者たちを勇気づけたであろう。

ご結婚後初めてテニスを楽しまれる皇太子ご夫妻(当時)/1959年5月31日、時事

美智子妃殿下が「専業主婦」の理想像に

恋愛結婚以上に画期的だったのは、生まれた子どもを手元で育てられたことである。お子様が生まれる直前、皇太子殿下(当時)は、「高校までは手元で育てたい」(1959年12月23日付毎日新聞)と発言している。

戦前はもちろん、50年代までは、上流階級(皇室、華族はもとより、企業経営者や地主、豪商など)では、家に使用人がいるのが普通だった。そして、子どもは乳母や使用人が育てるものであった。親が手元で子どもの世話をしたり、しつけるのは貧しい庶民の習慣であったのだ。現天皇陛下も乳母や養育係に育てられたのである。だから、当時の香淳皇后は、皇太子夫妻が子どもたちを手元で育てることに苦言を呈したといわれている。

さらに、当時、エプロン姿の美智子妃殿下が、キッチンで離乳食(?)を自ら作っているお姿が写真に残っている。ここにも、愛情をもって家事をするという「専業主婦」という新しい家族の形のモデルとなったことがうかがわれる。これも、戦前、皇族に当たる人が台所に入って自分で料理を作るなど考えられないことであった。

そして、実際に、戦後、「専業主婦」がいる家庭が増えていく。戦前は、庶民は農家など自営業が大部分で、女性も外で農作業など生産活動に従事していた。上流階級の女性は、労働どころか、家事、育児も使用人任せであった。戦後、工業化が進展し、企業で働く男性が増えるとともに、家事、育児をもっぱら行う専業主婦が増え、75年頃に最も多くなったといわれている。美智子妃は、その新しい女性のモデルとなったのだ。

長野県・軽井沢プリンスホテルでご静養される皇太子ご一家(当時)/1966年8月13日、時事

さらに、皇室のご様子として、ご公務の他に、親子そろってレジャーをする皇太子一家のお姿が、たびたび報道されるようになる。戦前の上流家庭では、夫は夫、妻は妻、子どもは子どもで別々に遊びに出かけることが一般的だったから、「家族レジャー」のモデルを示したのも、皇太子一家だったのである。

家族モデルなき時代と天皇ご一家

今、日本では、家族の多様化、家族の崩壊というよりも、「家族の衰退」が進んでいる。「男が主に外で働き、妻が主に家事をする」という戦後家族モデルは、根強く残っており、若者の間でもそれを理想とする者が多い。その一方で、欧米のように、「夫婦共働き」を理想とする人たちも増えてきている。そして、何よりも、結婚したくてもできない人が増え、私の言う「親同居独身者」が増えている。

今上天皇の次の世代の皇族の方々は、もう、家族の新しいモデルというものを示せなくなっているように見える。恋愛結婚は、当たり前のものとなり、秋篠宮殿下が学生時代からのお付き合いを成就させた時も、驚く人は少なかった。そして、皇太子殿下が、自ら選んで外交官の小和田雅子さんとご結婚されたときは、私は、キャリアで共に活躍する夫婦をイメージし、「平成の新しい家族モデル」を示して欲しいとコメントをしたことがあった。

しかし、現実にはなかなか理想のモデルとはいかず、注目され過ぎることがご負担になったのではないかと思えてくる。逆に、夫婦で共に活躍することが、一般の家庭だけでなく、皇太子一家でも難しいものであったことを象徴する例になってしまったかもしれない。もう、「このような在り方が家族の理想である」というモデルを示すことができない時代になっている。

「終活」としてのお気持ち表明

その中で、今回の天皇陛下の生前退位、それに先立つ2013年の陵墓の簡素化に関するお気持ち表明は、これから引退する高齢者世代のモデルとなるのではないかと感じた。

お墓に関して言えば、天皇家先祖代々のお墓というものは存在しない(ちなみに徳川将軍先祖代々の墓も存在しない)。天皇のお墓は、仁徳天皇陵という大きなものも含めて、基本的に個人墓である。中には、天武天皇と持統天皇が共に入った夫婦墓(もちろん、天武天皇の他の妃のお墓は別である)という今から見れば近代的なものも存在する。

長男が継承して祖先を祀(まつ)る「イエの墓」が普及するのは、明治時代以降である。そして、子どもが多かった時代はともかく、未婚化が進む現代では、多くの人にとって先祖代々の墓は維持できないものになっている。そんな中、天皇陛下が率先して陵墓の簡素化を提言するのは、意味があることだと思う。

そして、今回の生前退位のお気持ち表明である。筆者が造語した「婚活」ならぬ「終活」という言葉を最近よく耳にする。何もしなくても、自分が亡くなったら何とかなるだろう、というのは、子どもの数が多かった昔の話である。生前から、自分の終末に向かって、さまざまな手当てをして、子どもがいなくても、また子どもがいても子どもになるべく負担をかけないように準備する人が増えている。

天皇陛下のご表明も、この終活の1つと考えることはできないだろうか。なるべく国民の負担を軽くするように、ご自身の終末を考えてのことではないだろうか。この件で、陛下に対する尊敬の念をさらに深めた次第である。

(2016年10月3日 記)

バナー写真:改修された迎賓館で「朝日の間」を見学される天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮ご一家(2010年5月30日、東京・元赤坂/時事)

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