日本の世界遺産登録問題で「勝負」に出た韓国政府の戦略を読む

政治・外交

木村 幹 【Profile】

日韓の歴史認識をめぐる対立は、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録の場でも大きな波紋を生んだ。国際舞台で「徴用工」問題に新たな注目を集めることに成功した韓国政府の戦略を検証する。

労働者動員問題における韓国政府のジレンマ

そして、韓国政府がこの問題を重要視したのにはもう一つ理由があった。それは少なくとも韓国国内の文脈では、「明治日本の産業革命遺産」をめぐる問題が、総力戦期の労働者動員をめぐる問題だと位置づけられていたことである。

周知の様に、2012年5月、韓国の最高裁判所である大法院が、元徴用工や遺族による新日鉄(現・新日鉄住金)と三菱重工を相手取った訴訟で、原告の請求権を認める判決を下して以来、韓国国内では総力戦期の労働者動員に関わる補償問題が日韓間の新たな歴史認識問題の重要イシューとして、浮上している。しかしながら、この様な状況は同時に韓国政府に深刻なジレンマをもたらしている。

裁判所が徴用工等の認定に積極である一方、1965年に締結された日韓基本条約の締結過程において、日韓両国がこの問題について正面から協議し、彼等への補償額が同条約によって韓国側に支払われた「経済協力金」の積算根拠の一つとなっていることは明らかだからである。だからこそ、慰安婦問題と異なりこの総力戦期の労働者動員をめぐる問題については、韓国の行政府は自らの立場を依然決めきれておらず、また、日本との間の交渉にも自信を持っていない。韓国政府に近い人々からは、万が一、元徴用工等をめぐる問題が、日韓基本条約の付属協定に記載される「仲裁委員会」に付されることになれば、韓国の勝ち目は極めて薄い、という声も聞こえてくるほどである。

「動員」ではなく現場の「強制性」が論点

このような中、突如として勃発した「明治日本の産業革命遺産」をめぐる問題は、韓国政府からすれば、自らにとって、国際法的に不利な状況にある、総力戦期の労働者動員をめぐる議論において、日本を押し返す絶好の機会であると映ったに違いない。そしてここにおいて韓国政府が選んだのが、総力戦期における朝鮮人労働者の労働環境の「強制性」に国際社会の目を向けさせ、これにより当時の日本政府の責任を、通常の国際条約の「例外」的なことであると印象付けることだった。恐らくその背景にあったのは、これまでの慰安婦問題をめぐる議論での韓国政府の経験であったろう。

よく知られているように、当初は動員時の強制性を中心とした韓国政府や運動団体の慰安婦問題に対する主張は今日では、動員先での強制性、言い換えるなら人権状況をめぐる議論へと転換されている。そして韓国政府は、この慰安婦問題で使われたロジックをそのまま徴用工等の問題にも応用することとなった。総力戦期の労働者動員においても終戦末期の法的な徴用によるものが明確なものを除けば、当時の朝鮮半島から日本への労働者の動員は、募集や官斡旋(企業等による募集を政府が手助けする形態)という法的な位置づけが曖昧な方法によるものが多数を占めており、動員過程における公権力によるむき出しの強制性を、日本に対してつきつけることは難しい。しかしながら、当時の朝鮮人が労働することとなった現場で明確な「強制性」があったなら、その不法性とそれに伴う賠償を別途議論できるかもしれない。

そしてその典型的な表れが、先のユネスコ世界委員会の直前に行われた日韓外相会談及びそれに引き続く交渉過程において、韓国政府が日本政府による声明文に “forced labor” という用語を入れることを要求したことだった。周知の様に、この ”forced labor” という用語は、国際的には国際労働機関(ILO)の「1930年強制労働条約」において違法行為を示すものとして、用いられているものであり、結局、両国は日本政府の声明文に”forced to work”という表現を使うという「玉虫色」の合意を行うこととなった。

国際社会の注目で韓国にとって「一石二鳥」の成果

しかしながら、結論から言えば、これにより日本による総力戦期の労働者動員の「強制性」を、国際社会の目前で議論の俎上に載せることに成功したことは、韓国にとって大きな成果となって現われた。何故なら、日本による総力戦期の労働者動員については、ILO等の国際機関において何度か議論されており、そこにおいて日本は大きく非難されることとなっているからである。

とりわけ重要なのは、1999年に出されたILOの強制労働条約の適用に関わる専門家委員会の報告書において、日本による非日本人に対する戦時動員は、その死亡率の異常な高さなどから、違法性が阻却される通常の戦時動員とは異なる「明らかな条約違反」とされていることである。当然のことながら、韓国側が日本政府との間の世界遺産問題に関わる交渉過程において、この報告書の存在を意識していた可能性は極めて大きい。

いずれにせよ重要なことは、韓国政府にとって「明治日本の産業革命遺産」をめぐる問題はそれ自身が重要であった、というよりは、国際社会において自らの歴史認識をめぐる争いで日本と互角以上に戦っていることを国内世論に対して見せ付けると共に、自ら抱える難問である徴用工等をめぐる問題の突破口を開くことのできる一石二鳥の出来事だったことである。そして実際、ここにおいて韓国は大きな成果を得ることになった。今後韓国側が積極的に提起するであろう、総力戦期の労働状況の「強制性」について日本政府はどの様な反駁を行っていくのか、注目したい。

(2015年8月10日  記)

タイトル写真=ソウル市庁前の広場で、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録反対の署名をする市民ら(2015年6月17日、Yonhap/アフロ)
▼あわせて読みたい
「明治日本の産業革命遺産」:世界遺産登録の意義と今後の課題 韓国における日本企業への戦時徴用賠償命令判決とその背景

この記事につけられたキーワード

世界遺産 従軍慰安婦 歴史問題 軍艦島

木村 幹KIMURA Kan経歴・執筆一覧を見る

神戸大学大学院国際協力研究科教授、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。1966年大阪府生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。ハーバード大学、高麗大学、世宗研究所、オーストラリア国立大学、ワシントン大学等の客員研究員を歴任。主著に『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房、2014年、読売・吉野作造賞受賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房、2003年、サントリー学芸賞受賞など)。

このシリーズの他の記事