「安倍談話」に向けて—アジア系米国人は日本の歴史認識をどう捉えるか

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8月の戦後70年「安倍談話」は、米国社会で影響力を増すアジア系米国人に対する配慮も重要だ。安倍首相訪米を振り返り、米国エスニック社会への視点の欠如に関し、米プリンストン大学教授が警鐘を鳴らす。

日本の曖昧な歴史認識が引き起こすやっかいな“さざ波”

米国で日本語や日本の文化、政治、歴史などを教えている私を含む日本専門家の多くは、日本課程に対するアジア系学生の関心の強さをよく知っている。実際、一部の大学では参加者の減少により、日本語のプログラムを削減したり、教員の新規採用を見合わせたりしているが、アジア系学生の関心の強さがあるからこそ、まだ多くの大学では同様の事態が起きていない。

アジア系の学生にもアジア系米国人の友人をもつ学生にとっても、スシやキティちゃん、アニメの『デュラララ!!』といった日本の食文化、ポップカルチャーが日常生活の当たり前の一部になっている。皆、点心は中国の食べ物、少女時代は韓国のアイドルグループ、バインミー・サンドイッチはベトナム由来だと知っている。これらはすべて、それぞれの文化的ルーツの特徴を維持しながら、アジア文化の影響を詰め込んだ米国の寄せ集め文化を構成しているのだ。

多文化共生というアメリカン・ドリームには限界も失敗もあるが、それでも米国の学生を強く惹きつけるし、その夢に挑むことが次世代の米国人リーダーたちを形作ることにもなる。多様な民族的背景を持ち、この寄せ集め文化に広く馴染んでいる学生が大学で日本について学びたいと思ってもなんら不思議はない。

しかし、日本から伝わってくるのは植民地時代と戦争の歴史についての一貫性のないメッセージだ。日本政府は毎年謝罪し、平和政策を推進すると誓うが、直接の謝罪と責任の明確化は避けて曖昧な追悼の言葉を述べ、教科書では戦争中の残虐行為の記述を最小限にとどめるか、表現を弱めている。一方、多くのアジア系米国人と他の米国人学生は生々しく悲惨な歴史について両親と語り合い、自分でも勉強する。日本の曖昧なメッセージは太平洋地域に“さざ波”を立て、しかもその波紋は容易には消えない。

韓国・中国を批判しても日本の右派に共感はしない

日本研究の専門家たち、そして日本社会にも広く「ジャパン・パッシング」、すなわち日本への関心が失われることへの懸念がある。グローバルな経済・政治における中国の重要性が日本を追い抜いたと思われることがその懸念の大きな背景だ。実際、日本の保守的な友人たちは折に触れ、日本はもう一度強くなるべきだと言う。つまり、この状況を打開するには軍事力を強化し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の影響下で形成された「自虐史観」のくびきから解放されるべきだと主張する。

しかし、彼らは私を含む米国の日本研究者たちが直面している状況を知る由もない。米国および国際的なメディアが、日本の大物政治家や評論家の中には、悔恨の言葉を限定的に使うばかりか、国の責任を明確に否定する声さえあると報じているときに、中国系や韓国系の学生、あるいは日系、さらにはその他の学生に対して、日本研究への高い関心を持続させようとすることは非常に困難だ。

日本語を学習科目から外した学生から、日本には悔悟の気持ちがないみたいだから日本に行きたくなくなった、と言われたことは一度や二度ではない。彼らは非常に鋭く分析的にものを考える学生たちであり、その多くが、韓国と中国政府が歴史的怨恨(えんこん)を都合よく利用して愛国主義を煽り、国益を追求しているようだと批判もしている。

しかし、日本の右派が慰安婦を不運だが自発的な売春婦と呼んだり、南京大虐殺を作り事だと言ったり、すべてが日本軍の明らかな計画的行為というより、単に戦争が生んだやむを得ない出来事であると思わせようとする動きにまったく共感していないし、これからも共感することはないだろう。

「安倍談話」がはらむリスク

私は、戦後70年談話として安倍首相が何を語るべきかについて議論するつもりはない。特に、米国が第二次世界大戦、ベトナム戦争、その他の戦闘の中で行った市民に対する極度の暴力行為を謝罪したがらないことに苛立ちを感じている一人の米国人として、私は、これらの歴史論争がいかに困難かということ、また、謝罪要求がともすれば他の政治的意図と絡められることも知っている。しかし同時に、安倍首相とそのアドバイザーたちは、米国とアジアに対して言う事をきっちり分けて考えるアプローチを再考すべきだと強く思う。首相は常に意識するべきだ。米国社会は幅広い出自と記憶を持つ、きわめて多様な人種のるつぼだということを。

アジア系米国人は、米国の他のエスニック・グループと同様、大きな影響力を持つ。その影響力により、南京大虐殺や慰安婦などの東アジアにおける「歴史論争」のキーワードが、米国人が日々直面する人権と戦争責任問題の語彙の一部になっている。彼らは硫黄島で戦った退役軍人の世代よりもずっと長く、今後数十年の米国とアジアの関係を決定づける存在なのだ。

私自身の経験に基づいて言うなら、日本学に対する関心と熱意を持つアジア系学生たちは、今後の日米同盟に最も重要な影響力を持つ存在になるはずだ。安倍首相は、首相に批判的な人々が望む直接的な表現ではなく、間接的で曖昧な哀悼の言葉を述べて、自らの良心と折り合いをつけ、保守的な支持者の意見におもねることを選ぶかもしれない。

しかし、その姿勢はアジア諸国のみならず、ワシントンでも批判されるだろう。訪米中に首相が演説をした米国連邦議会は、議員の年齢や人種、性別を見ても、今の米国を代表するとは言えない。上下両院合同会議でのスタンディング・オベーションは、例えその場では真の賞賛だったとしても、戦争そのものの記憶より遠い記憶になってしまうかもしれない。

[この原稿を書くにあたり、助言を与えてくれたプリンストン大学の同僚Anne Cheng 教授に感謝する(筆者)。]

(2015年7月1日 記 原文英語)

タイトル写真=安倍首相が4月訪米の際に視察したハーバード大学で抗議デモを行う学生たち(新華社/アフロ)

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