メジャーから黒田投手がカープ復帰:高揚感に沸く広島
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上空が青く晴れ渡ったマツダスタジアムはカープカラーの赤に染まっていた。3月29日の広島東洋カープ―東京ヤクルトスワローズ戦。広島に8年ぶりに復帰した黒田博樹が初先発を迎え、スタンドには3万人を超えるファンが詰めかけた。誰もが高揚感を隠せないでいる。一挙手一投足を食い入るように見守り、プレーボール後の第1球は静寂が包んだ。アウト一つに大歓声。みんな幸せそうに笑っていた。
地元ファンが殺到、経済効果約250億円の試算
黒田は米大リーグのヤンキースなどで活躍し、日本人投手では初の5年連続2桁勝利を飾った。日米通算182勝の大投手が昨年12月末、大リーグの複数球団が提示した約20億円のオファーを一蹴し、5分の1の年俸で古巣広島への復帰を決めた。
お金に偏った価値観が増した世の中で、「それよりも大切なものがある」という生き方は多くの日本人の心を揺さぶった。黒田は19年目の今季を40歳で迎える。「僕に残された球数はそれほど多くない。一球の重みを考えたとき、カープで野球をした方が充実感を感じられるのではないかと判断した」。ばりばりの現役メジャーリーガーが郷愁の念をも抱いた決断は大きなニュースとなった。
広島ファンは即座に反応した。復帰決定から3週間後には、約8400席ある本拠地マツダスタジアムの年間指定席が完売。創設65年の球団で初めてのことだ。購入層は企業や団体ではなく、新規の個人客が目立ったという。黒田グッズが発売された2月1日はファンが殺到し、昨年2月の一カ月分の売り上げをたった1日で上回った。公式戦前のマツダスタジアムで黒田が登板した試合はオープン戦で球団史上最多の観衆3万1255人。復帰による経済効果は人口280万人の広島県内で最大256億円との試算も出た。
“全身全霊”で投げるエース
日本中が注目する一大フィーバーを巻き起こした黒田とはどんな男なのか。
1975年2月10日、大阪府で生まれた。父一博さんは元プロ野球選手。父が監督を務める少年野球チームで初めて硬球を握り、投手を始めた。母靖子さんは高校の体育教師。元砲丸投げの選手で64年東京五輪の強化合宿にも参加した。プロ入り後、肩や肘に大きな故障がない黒田の体は、既に他界した両親から譲り受けた天性のものだろう。
練習熱心で我慢強い。グラブには常に忘れたくない思いとして「感謝」の文字を刻んでいる。妥協や筋が通らないことを嫌い、そこは気を許した間柄でも譲らない性分だ。
入団5年目で初めて2桁勝利を達成。その後、多くの変化球を習得し、投球術を確立した。僅差のゲームでも完投を重ねるタフさもあり、エースへと成長。1点を守れずに降板し、ベンチで涙を流したこともある。マウンドで全身全霊を込めて投げる黒田をファンが支持し、好む風土も広島にはあった。
市民球団の低迷期支える
1945年8月、広島市は原爆で焦土と化した。それから5年後に創設されたカープは復興の象徴であり、希望だった。慢性的な資金難は市民が「たる募金」(※1)をし、チームの解散危機を救った。57年には地元経済界が建設費を寄付してナイター施設のある広島市民球場を建設。どんなに弱くてもカープは生活の一部としてなくてはならない存在となった。
75年に悲願の初優勝。その後は黄金期を迎え、全国区のスター選手も相次いで誕生した。3度の日本一など、17年間で6度のリーグ優勝を飾る。大企業の宣伝色もあるプロ野球の中で唯一、独立採算制の地方球団として成功していた。
順風だったチームが93年に大きな転機を迎えた。選手が移籍先を自由に選べるFA制度が導入され、年俸が高騰。親会社を持たず、資金力の弱い広島球団はその波に直撃された。好待遇を求めて主力選手が相次いで移籍。戦力は落ち、97年の3位を最後にBクラス常連の低迷期に入った。
そんな暗黒時代を支えたのが黒田だった。生え抜きとしてマウンドで孤軍奮闘。2006年シーズンにはFA権を取得し、流失を恐れた大勢のファンが動いた。残留を願う署名運動を起こし、シーズン最終戦には旧広島市民球場の右翼席に巨大な横断幕が掲げられた。
「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる」
スタンドから黒田コールが尽きない。背番号15の大旗が振られ、プラカードも無数に掲げられた。この光景に黒田は感慨に震えた。「必要とされていることを本当に感じた」
残留宣言にファン喝采、芽生えた絆
プロ野球で65年間も同じ都市を本拠地としている地方球団はカープだけだ。弱小の創設期を知る老人や黄金時代を見た中年、優勝を知らない子供たちが、長い低迷で誇りや自信を失いかけていた時、結束して動いた。
そんなファンの願いに、黒田は応えた。同年11月に「広島市民球場のカープファンの前で、カープを相手に投げる姿が想像できなかった」と残留宣言。ファンは喝采し、「お金では動かない男」と膝を打った。黒田とファンとの絆が芽生えた瞬間だった。
将来的なメジャー挑戦への夢を明かした黒田は、1年後の2007年オフに大リーグ移籍を表明した。この時の退団会見で堂々と言い切る。「もし日本に帰ってくるならカープしかない」。1年間の残留に感謝していたファンは背中を押して送り出し、その言葉を信じ、待ち続けた。
海を渡ってからも、黒田は広島を大切にした。毎年オフ、家族を米国に残して単身で戻り、約1カ月を過ごす。そのたびに自分を待っている人が大勢いることを肌で感じた。ドジャースとの3年契約が終わった10年オフからはカープ球団からも5年連続でオファーを受けた。メジャー残留か、カープ復帰か。去就の悩みは毎年深かった。
集中豪雨災害の現場にも足運ぶ
2014年10月下旬。米国から帰国した黒田は知人に頼み、広島市中心部から北へ10数㌔の安佐南区八木地区へ車を走らせた。8月下旬に集中豪雨で70人以上が亡くなった広島土砂災害の現状を確かめるためだ。災害直後は米国から義援金を送るなど、心を痛めていた。そこでは消えた町並みや無残に横たわる車の光景に言葉を失い、立ち尽くしたという。
復興ボランティアの一人が黒田に気がつき、あっという間に人垣ができた。約20 人と一緒に記念撮影した写真の背景には家々を流した土砂が映り、中央に立つ黒田の表情は硬い。そんな彼を取り囲むように映っている人々は、みんなうれしそうに笑っている。その夜、黒田は知人との会食でつぶやいた。「苦しんでいる人に僕が野球で勇気や元気を与えることができるなら、それは一番のモチベーションになる」。ファンの存在を再認識する大きな出来事となった。
「残り少ない野球人生」に自問自答、そして決断
カープとは3回目の交渉が転機となった。12月中旬、球団は総額4億円を超える条件を提示。最高1800万ドルのメジャー球団には遠く及ばない金額だが、カープでは史上最高年俸であることはすぐに分かった。球団の本気度を感じ、心が大きく動いた。
2006年の残留がそうであったように、黒田は去就の判断材料で金銭を最上位としない。40歳で迎える今季は特にその思いが強かった。「もうあと何年も野球はできない」「投げる以上は最高のパフォーマンスを発揮できるところ」「残り少ない野球人生で一番モチベーションが高まるのはどこか」。それを毎日、自問自答していた。
そこに毎年帰ってこいという球団がある。毎年待っている人と街がある。米国時間の12月25日午後5時すぎ。「もう踏み出すしかないと思った。踏み出せばまた見えてくるものもある」。ロサンゼルスの自宅で広島復帰を決断した。
「待っていてくれる」広島、充実感求めて
大リーグの7年間で手にした年俸総計は約90億円。今回は年俸20億円オファーを袖にした復帰劇だった。「米国で世界の広さを経験した中、広島という小さな街に僕のことを待ってくれる人がいる。メジャーで投げる以上の充実感があるのではと思った」。黒田はプロの評価である金額の大事さを理解した上でそう振り返る。
3月の復帰初戦は7回無失点で初勝利を飾った。試合後、グラウンドであったヒーローインタビューでは、会見以外では帰国後初めて黒田の肉声がファンに響いた。「広島のマウンドは最高でした」。後生に語り継がれるであろう、復帰劇。広島の街にはマンパワーによる新たなエネルギーが生まれた。
バナー写真:広島復帰後の公式戦に初先発し、好投する黒田博樹=2015年3月29日、マツダスタジアム(時事)
(※1) ^ 1951年、広島球団は経営危機が表面化し、他球団との合併や解散が取りざたされた。その際、本拠地球場の入口に酒樽が置かれ、多くの市民がそこに浄財を寄付した。