公明党結党50年・自公協力15年——その曲折と妥協の歴史

政治・外交

結党から50年を迎えた公明党。この15年にわたり自民党と協力態勢にあるが、これまでの道のりは曲折の連続でもあった。同党の歩みを振り返り、直面する課題を分析する。

戦後政党史で3番目に長い歴史

公明党は2014年11月17日で、結党満50年を迎える。また、1999年10月の小渕恵三内閣における自民、自由、公明3党連立内閣への参画以来,“自公協力”は15年となった。

戦後の政党史の中で、公明党は共産党、自民党に次いで3番目に長い歴史を持つ。しかし、その歴史は、保守でも革新でもない“中道”路線、日米安保条約の段階的解消などを掲げた野党時代、1993年の細川内閣における政権与党化、その後の自公対立を経たうえでの「自公協力」、さらには最近の自公連立政権と、曲折の連続であった。

一方で、支持母体である創価学会との“政教分離”問題や出版言論妨害事件など、同党の存立にかかわる問題にも直面してきた。

第2次安倍内閣では、「平和の党」を大看板とする公明党が、集団的自衛権の行使容認をめぐる憲法解釈変更問題で苦渋の選択を迫られた。同党は山積する課題の中で、責任ある政党として国民の支持を得られ続けるか、大きな分岐点にさしかかっている。

政界浄化と大衆政党

公明党の結党大会は1964年11月17日、東京・両国の日大講堂で行われた。しかし、創価学会は結党前の56年7月に行われた第4回参議院選挙で、初めて無所属候補として全国区2人、大阪地方区1人の3人を当選させ、第6回参院選(62年7月)までの3回の参院選で15人の参院議員を擁し、「参院公明会」という国会内会派を結成するまでになっていた。

創価学会の池田大作名誉会長=2008年5月撮影(時事)

その後、創価学会の池田大作名誉会長が、1960年5月に32歳の若さで第3代会長に就任すると、翌61年11月に「公明政治連盟(公政連)」を結成した。掲げた目標は「政界浄化」であり、その3年後に公明党の結党が実現する。

結党大会で掲げた方針は、①政界浄化②議会制民主主義③大衆福祉―の3本柱で、あいさつに立った池田会長は「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」と、大衆政党としての立場を強調した。

同時に、公明党は、結党のもう1つの基本理念として「王仏冥合」「仏法民主主義」を掲げた。現在では政教分離原則が厳しくチェックされているが、こうした基本理念は仏法の絶対平和思想が、世界を戦争から守る道だとするもの。こうした理念はのちに同党とは切り離された。

キャスチングボートを握り野党として躍進

公明党は1956年に参議院で議席を得た後、衆議院に議席を獲得するまで11年かかかっている。しかし、その躍進ぶりは政界の台風の目となり、“黒い霧解散”といわれた67年1月の第31回総選挙では25人を当選させ、自民、社会、民社3党に次ぐ第4党に躍進した。

69年12月の第32回総選挙には47人を当選させ、民社党を抜いて第3党に躍り出た。この結果、竹入義勝委員長、矢野絢也書記長の新執行部体制が発足、政界のキャスチングボートを握った。

だが、政党としての路線は、揺れ動き続ける。結党当初は保守、革新のどちらにも偏しない「中道」を模索していたが、結党2年後には日米安保条約の段階的解消を打ち出し、”反自民”を鮮明にして野党化した。

自民党長期政権のもとでの金権腐敗政治の横行など、政界浄化を掲げた公明党は、さらに野党化の流れを強め、72年の「中道革新連合政権」構想を経て、73年9月の「安保即時廃棄」論へとエスカレートした。

1972年8月、中国訪問を終えて帰国し、田中角栄首相(中央)と会談する公明党の竹入義勝委員長(右)。左端は大平正芳外相=東京・首相官邸(時事)

自衛隊、安保条約容認で保守化

公明党が“野党路線”から保守化傾向を強めたのは、1978年の第15回党大会以降で、竹入委員長は自衛隊と日米安保条約を容認し、原子力政策推進の立場も明確にした。特に、公明党が自民党の進めようとした有事法制の研究を容認したことで、それまでの「社公民路線」を転換することになった。81年12月の第19回大会では、さらに踏み込み、自衛隊の「条件付き合憲」を容認、安保体制の存続を主張した。

この時期、公明党が構想していたのは、自らを軸とする「中道連合政権構想」で、保守系グループの連携相手は河野洋平(元衆院議長)氏らが76年に自民党を離党して立ち上げたばかりの新自由クラブだったといわれる。

公明党の保守化のもう1つの要因は、同党が国政選挙だけでなく、地方議会での勢力拡大に力を入れてきたことだ。そのシンボルが東京都議会であり、69年7月の都議会選挙では擁立した25人全員が当選、社会党を抜き第2党となった。創価学会の宗教法人認可の権限は東京都にあり、「都議会は公明党の死活問題」とまで言われた。地方議会における与党化が、中央政界における“保守化”を促した。

初の政権参加もあっけなく野党転落

公明党は、「55年体制」の崩壊といわれた1993年の政界地殻変動以降、再び大きく揺れ動く。自民党長期政権の崩壊直後にできた“非自民・非共産”の細川護熙内閣に初めて政権参加し、郵政、労働両省、総務、環境両庁の4つの大臣ポストを占めた。だが、細川内閣の後継である羽田孜内閣が64日間で崩壊すると、次の村山富市内閣は自民、社会、さきがけ3党の連立内閣となり、公明党は再び野党に転落した。

政界再編のあらしが吹き荒れる中、94年12月には公明党を解散し、「公明新党」と「公明」に分党。その直後に「公明新党」は小沢一郎(現「生活の党」代表)氏が率いる新進党に合流するという慌ただしい動きを見せた。

95年の第17回参院選挙では新進党として選挙に臨み、自民党の単独過半数の阻止に貢献する。特に、新進党は比例区で第1党となる大躍進を遂げたが、その裏に創価学会の大きな選挙支援活動があった。

その結果、自民党内に、公明党に対する極めで強い警戒感が生まれた。地下鉄サリン事件(95年3月)などの影響もあって、自民党は政教分離基本法の制定や、池田会長の国会証人喚問要求を突きつけた。自公両党の関係が、最も険悪になった時代といえる。

“自公連立”を後押しした94年選挙制度改革

しかし、「自公和解」は意外に早く訪れる。新進党が小沢代表の党運営をめぐる混乱などから97年12月に分党したためだ。98年11月には分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。

99年10月には自民党と小沢氏が率いる「自由党」との連立に加わる。小渕第2次改造内閣の時で、「自自公連立内閣」といわれた。保守路線への回帰であり、これ以降、政権与党、野党両時代を含めて「自公協力」は15年となる。

自自公3党の合意文書を交換する前列左から小沢一郎自由党党首、小渕恵三首相、神崎武法公明党代表。後列は左から藤井裕久自由党幹事長、森喜朗自民党幹事長、浜四津敏子公明党代表代行、冬柴鉄三公明党幹事長=1999年10月4日、東京・首相官邸(時事)

そして「自公連立内閣」が実現したのは、第2次小泉内閣時代の2003年11月。それまで与党を形成していた保守新党が解散したのに伴い、名実ともに「自公連立」政権となった。

こうした連立・連携の動きは、細川内閣時代の1994年に実現した小選挙区比例代表並立制導入が大きく影響している。2大政党制を目指す選挙制度改革は、創価学会という強力な組織票を持つ公明党にとって、全国区で多くの当選者を出したとしても、選挙区では自民党などの有力政党と連携しない限り、一定の勢力を維持できないからだ。

自民党と連携した背景には、70年代の日中国交回復に関連して、自民党旧田中派との連携があったことや、地方では共産党などの革新勢力と票の奪い合いをするケースが多く、逆に自民党とは地方と都市とで地盤を分け合うことが容易だったことなどが挙げられる。

「妥協の連続」だった自公協力15年

15年を迎えた「自公協力」だが、その過程は妥協の連続の歴史ともいえる。第2次安倍内閣での集団的自衛権行使容認をめぐる協議は、すきま風が吹きながらも“条件付き容認”で決着した。公明党に「政権離脱という選択肢はほとんどなかった」というのが実情だからだ。

2006年12月に成立した改正教育基本法でも、「愛国心」をめぐり自公対立はあったが、最終的には自民党が折れ、公明党の主張した文言を盛り込み妥協が成立している。

一方、自民党にとっても公明・創価学会の支援がないと小選挙区では当選が難しいという事態に直面。「公明党は生命維持装置」とまで言われる状況になっている。

こうした、相互補完関係の結果、2009年に民主党が総選挙で大勝し、政権交代が実現した際も、自公協力は崩れなかった。背景には、民主党が大勝しすぎたため、公明党の協力をほとんど必要としなかったことがある。また、民主党内には公明党・創価学会に対する「政教分離」問題へのアレルギーが、自民党より根強いということもあった。

結党50年の公明党に、今後期待されるのは何か。政権与党として国民本位の政策形成、合意に向けた貢献ができるかにあるといえる。党代表に4選された山口那津男代表は2014年9月の第10回全国大会で、「国民のための政策実現に不退転の決意で邁進する」とあいさつ。井上義久幹事長は「公明党の保守・中道路線の真価は、政治の左右への揺れや偏りを正す」ことだと強調した。

出版言論妨害事件で政教分離

最後に、公明党の歴史を振り返る時、「出版言論妨害事件」(1969年~70年代初め)を避けて通ることはできない。69年11月に刊行された藤原弘達明治大学教授(政治評論家)の『創価学会を斬る』に対し、創価学会が猛烈に反発、出版される前から出版社、流通、書店などに露骨な圧力をかけ妨害した。

公明党大躍進の時期であり、その影響は極めて大きく、創価学会・公明党の密接な関係が政教分離原則の観点から激しい社会的批判にさらされた。池田大作会長(当時)は70年に「言論妨害の意図はなかった」としながらも公式に謝罪した。その上で、池田会長は政界に進出しないことを明言するともに、公明党議員は創価学会の役職からすべて離れた。多くの同党議員が創価学会の幹部出身者で占められていたからだ。

あれからすでに45年。高齢と健康問題で公式の場にほとんど姿を見せなくなった池田名誉会長だが、公明党の支持母体が創価学会であることに変わりはない。しかも連立政権の与党として、大きな責任を担う。カリスマ的な創価学会の指導者である池田名誉会長の後継問題が、公明党の今後に影響を及ぼすのは不可避だといえる。

公明党の衆院選挙における獲得議席

  獲得議席(擁立候補者数)
第31回 1967年 1月 黒い霧解散 25(32)
第32回 1969年12月 沖縄解散 47(76)
第33回 1972年12月 日中解散 29(59)
第34回 1976年12月 ロッキード選挙 55(88)
第35回 1979年10月 一般消費税解散 57(64)
第36回 1980年 6月 ハップニング解散 33(64)
第37回 1983年12月 ロッキード解散 58(59)
第38回 1986年 7月 死んだふり解散 56(61)
第39回 1990年 2月 消費税解散 49(58)
第40回 1993年 7月 政治改革解散 51(54)
第41回 1996年10月 新選挙制度解散 (新進党として)
第42回 2000年 6月 「神の国」解散 31(74)
第43回 2003年11月 なれ合い解散 34(55)
第44回 2005年 9月 郵政解散 31(52)
第45回 2009年 8月 がけっぷち解散 21(51)
第46回 2012年11月 近いうち解散 31(54)

 

公明党の参院選挙における獲得議席

 獲得議席非選挙総議席
第4回 1956年7月 3    
第5回 1959年6月 6    
第6回 1962年7月 9 6 15
第7回 1965年7月 11 9 20
第8回 1968年7月 13 11 24
第9回 1971年6月 10 12 22
第10回 1994年7月 14 10 24
第11回 1977年7月 14 11 25
第12回 1980年6月 12 14 26
第13回 1983年6月 14 13 27
第14回 1986年7月 10 14 24
第15回 1989年7月 11 11 22
第16回 1992年7月 14 10 24
第17回 1995年7月 11 11
第18回 1998年7月 9 13 22
第19回 2001年7月 13 10 23
第20回 2004年7月 11 13 24
第21回 2007年7月 9 11 20
第22回 2010年7月 9 10 19
第23回 2013年7月 11 10 21

 

タイトル写真:公明党全国大会で並ぶ山口那津男代表(右から8人目)ら=2014年9月21日、東京都港区(時事)

政界再編