「寝台列車」「ブルートレイン」の終わりと「クルーズトレイン」の始まり
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客船と寝台列車がたどった同じ道
ジェームス・キャメロン監督の映画「タイタニック」をご覧になった方は、レオナルド・ディカプリオが演じた主人公ジャック・ドーソンが、船底に近い3等船室の客であったことをご記憶だろう。タイタニック号は超豪華客船だったと語り継がれており、1・2等船室を利用できた裕福な人々は優雅な船旅を楽しんでいた。けれども、実際は3等船室の定員の方が1等、2等を合わせた数より多かった。ライト兄弟の動力飛行機による初飛行が1903年。タイタニック号の就役と沈没は1912年。旅客機が未発達であった時代には、どんな客船であっても、“大衆のための交通手段”という一面を持っていたのである。
翻って現代。2014年3月には、クイーン・エリザベス号(3代目)が日本各地に寄港して話題を呼んだ。むろん旅客機での移動が当たり前となった今では、一般的に客船は国際的な長距離交通手段とはなりえず、世界一周など観光地を巡る船旅(クルーズ)そのものを楽しむための乗り物である。
さて、時代とともに変わった客船の役割の変化。それが、そっくりそのまま日本における寝台列車の変化の構図と同じなのだ。交通手段としての客船からクルーズ客船への変化は、欧米を中心におおよそ1950~60年代に起こったが、日本の寝台列車では、同じような変化が1990~2000年代の約20年間をかけて起こっている。
「輸送力」優先から「居住性」優先へと変化した寝台列車
日本における近代的な寝台列車の始まりは、東京~博多間を結ぶ特急「あさかぜ」が、新鋭客車20系に置き換えられた1958年にさかのぼる。「あさかぜ」は1956年に運転を開始した列車で、それまでの急行列車による所要時間を大幅に短縮。夕刻に出発し、翌日午前中に目的地へ到着できる利便性の高さから人気を呼び、2年後には新たに開発された客車が投入された。
青の車体に白いラインが入った20系客車の特徴から名付けられた「ブルートレイン」という愛称は、寝台列車の代名詞となった。富裕層や著名人の乗車も多く、14両の客車のうち、個室寝台車も含めた1等車(20系登場時は2等車。現在のA寝台車)が半分を占めていた時期もあった。しかし残りは大衆的な2等車(20系登場時は3等車。現在のB寝台車)であり、「あさかぜ」に続いて、20系客車を用いて増発された東京~九州間の他の寝台列車も、編成のほとんどが2等寝台車。決して豪華列車ではなく、庶民のための交通手段でもあったのだ。まさにタイタニック号と同じである。
20系客車は、全車冷暖房完備など、完成当時としては最先端の車内設備を誇り、「走るホテル」とも呼ばれたが、B寝台車は従来通りの3段式ベッドで幅も52cmしかなく、できるだけ定員を多く取った設計であった。ベッドは1971年登場の14系客車で幅が70cmに広げられ、1974年登場の24系25形客車では2段式へと改善された。逆に言えば、この改善は定員の減少を容認できる、イコール、寝台列車の利用客が減少傾向となったことを意味していた。20系のB寝台車1両あたりの定員は、標準的なタイプで54人であったが、14系は48人。24系25形は34人だ。
青函トンネル開業で生まれた新しい発想
半面、交通手段としての寝台列車が次第に縮小傾向となったのに対し、1988年の青函トンネルの開業によって上野~札幌間の直通寝台列車「北斗星」が設定された頃から、新しい考え方が生まれ始めた。それこそ客船によるクルーズと同じく、「鉄道による旅行そのものを楽しむ列車」なのだ。「北斗星」の運転時間は約16時間。それに対し、旅客機で東京~札幌間を移動すると、空港アクセスの時間を含めても3時間30分ほどで到着できる。単なる移動のための交通手段としては、「北斗星」は選択されない存在となろう。
そこで、1987年に国鉄から分割民営化したばかりのJRは発想を転換。「北斗星」の運行を担当するJR東日本とJR北海道は当初の計画を急きょ変更してまで豪華列車化を進め、バブル経済下の好景気の波と青函トンネルへの興味も相まって、「北斗星ブーム」と呼ばれる人気を集めることに成功した。クルーズ客船と同じく、列車に乗ること自体が楽しみとなるよう、プライバシーが守れる個室寝台車や料理を充実させた食堂車を連結した寝台列車を造り上げたのだ。
そして「北斗星」の考え方をさらに進めたのが、1989年運転開始の「トワイライトエクスプレス」(大阪~札幌間)と、1999年運転開始の「カシオペア」(上野~札幌間)である。これらは「クルーズトレイン」として徹底した設計を行い、ラウンジ、食堂車の他は個室寝台車主体で編成を組んだ。
その延長線上に、2013年運転開始の「ななつ星in九州」がある。この列車のコンセプトは「クルーズ」そのもので、豪華な車内設備を堪能しつつ、九州内の観光地を数日かけて巡るというもの。「トワイライトエクスプレス」や「カシオペア」を交通手段として使うことは不可能ではなく、例えばビジネスで札幌へ向かうために乗車しても差し支えない。ところが「ななつ星in九州」は抽選制による数カ月前の予約が必要で、しかも博多から乗車した客は博多に戻ってくるより他はなく、交通手段としての役割は完全に放棄している。果たして、これを寝台列車と呼んでいいものかどうかためらうところだ。JR東日本やJR西日本も同種のクルーズトレインを2017年から運行することを発表しているが、おそらく「ななつ星in九州」と同様の運行形態が取られるものと思われる。
終焉を迎える「交通手段としての寝台列車」
他方、交通手段としての寝台列車は、終焉を迎えつつある。2009年までに「あさかぜ」を含む東京~九州間の寝台列車は全て廃止。2014年3月15日のダイヤ改正では、上野~青森間の「あけぼの」が廃止され、残る寝台列車は「北斗星」と「サンライズ瀬戸・出雲」(東京~高松・出雲市間)および「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」のみとなってしまった。最盛期の1975年には定期列車だけで1日39往復が運転されていたのと比べると、衰退ぶりは激しい。さらに最近、北海道新幹線・新青森~新函館北斗間の開業(2016年3月予定)を控える中、「トワイライトエクスプレス」が車両の老朽化を理由に2015年春で廃止されることが発表された。
寝台列車の衰退を加速させた要因としては、新幹線の延伸以外に、地方空港の整備、安価な夜行高速バスの発達、低価格で良質なビジネスホテルチェーンの全国展開などが考えられている。だが、それ以上に、地方経済の転落が大きく影響したのではないかとも思う。首都圏以外の経済状況はバブル崩壊以降、著しく悪化しており、地域産業の不振があちこちで報じられている。人口の首都圏集中が進み地方は過疎化が進む。これでは活発な交流は望めず、公共交通機関にも大きな影響がある。この間、数多く開港した地方空港ですら利用客の少なさに悩まされ、後押しする地元自治体に重い負担がのしかかっている。もともと所要時間の面で不利な寝台列車に、しわ寄せがくるのも当然だ。少子高齢化が進み、体力的に「楽をしたい」中・高齢者層が、所要時間が短い交通機関に流れがちになる点にも、着目しなければならないだろう。
公共交通機関が示している状況は、まさに社会の縮図でもある。鉄道のことであっても、線路の上だけで物事を考えていては、本質を見誤る。大衆的な寝台列車の衰退と一部の富裕層を狙ったクルーズトレインの勃興は、まさに現在の日本の経済状況を如実に現している現象なのだ。
バナー写真=JR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」(撮影=川井聡)