
日本を救った男-吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死
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「お疲れさまでした。本当にありがとうございました」
7月9日午前11時32分、吉田昌郎・福島第1原発元所長が亡くなったという一報を吉田さんの親友からもらった時、私はそうつぶやいて胸の前でそっと手を合わせた。
吉田さんは、最後まで原子力発電に携わる人間としての「本義」を忘れず、「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害に至る事態をぎりぎりで回避させ、文字通り、「日本を救った男」だった。今も東京に住み続けている一人として、吉田さんへの心からの感謝の念が込み上げてきたのである。
国家の「死の淵」で闘い、「戦死」した男
吉田さんは、昨年2月7日に食道がんの手術を受け、回復するかにみえたが、7月26日に今度は脳内出血で倒れ、二度の開頭手術とカテーテル手術を受けた。
しかし、がん細胞は肝臓へと転移、最後は、肺にも転移し、太腿に肉腫もでき、肝臓の腫瘍はこぶし大になっていた。
そのことを聞いていた私は、「いつかはこの日が来る」ことを覚悟していた。吉田さんは暴走しようとする原子炉と闘い、過剰介入を繰り返す首相官邸とも闘い、時には、理不尽な要求をする東京電力本店とも闘った。自分だけでなく、国家の「死の淵」に立って究極のストレスの中で闘った吉田さんは、58歳という若さで「戦死」したのだと私は思っている。
昨年7月に脳内出血で倒れる前、私の二度にわたる都合4時間半のインタビューを受けてくれた。それは、あらゆるルートを通じて1年3カ月も説得作業を続けた末のインタビューだった。
初めて会った吉田さんは、184センチという長身だが、闘病生活で痩せ、すっかり面変わりしていた。吉田さんは、それでも生来の明るさとざっくばらんな表情で、さまざまなことを私に語ってくれた。
前述のように、あそこで被害の拡大を止められなかったら、原子炉の暴走によって「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害になったこと、そして、それを阻止するべく原子炉冷却のための海水注入活動を行い、汚染された原子炉建屋へ突入を繰り返した部下たちの姿を詳細に語ったのである。
官邸、東電上層部の命に反して、断固として海水注入を続行
吉田さんは、いち早く自衛隊に消防車の要請をし、海水注入のためのライン構築を実行させ、1号機の原子炉格納容器爆発を避けるための「ベント」(格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出する緊急措置)の指揮を執っている。空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身に着けての決死の「ベント作業」は、すさまじいものだった。
その決死の作業を行った部下たちは、私のインタビューに、「吉田さんとなら一緒に死ねる、と思っていた」「所長が吉田さんじゃなかったら、事故の拡大は防げなかったと思う」。そう口々に語った。自分の命をかけて放射能汚染された原子炉建屋に突入する時、心が通い合っていない上司の命令では、“決死の突入”を果たすことはできないだろう。
吉田さんは、彼らが作業から帰ってくると、その度に一人一人の手をとって、「よく帰ってきてくれた! ありがとう」と、労をねぎらった。
テレビ会議で本店にかみつき、一歩も引かない吉田さんの姿を見て、部下たちは、ますます吉田さんのもとで心がひとつになっていった。吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」
武黒フェローの命令に吉田さんは反発した。「なに言ってるんですか! 止められません!」
海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」。そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。
多くの原子力専門家がいる東電の中で、吉田さんだけは、原子力に携わる技術者としての本来の「使命」を見失わなかったことになる。