富士山の文化史

文化 歴史 美術・アート

高階 秀爾 【Profile】

富士山は、遠く古代の昔から日本人にとって賛嘆と敬意の対象であり、数多くの絵画や文学などの中に描かれてきた。なぜこのように富士山は日本人の心と深く結びついてきたのか。美術史家の高階秀爾・東京大学名誉教授が探る。

旅と富士

すでに見てきたように、富士講仲間による参詣登山は信仰の行為であったが、同時にまた、江戸の人々にとっては、日常生活を離れ、往路復路でさまざまの景観を楽しみ、見知らぬ町を訪れて珍しい風物に触れるという観光の旅でもあった。そのことは、江戸時代に盛んになったお伊勢参りや金比羅参りの場合も同様である。伊勢神宮に参詣する人々の数は、18世紀初頭の伊勢山田奉行の幕府への報告などをもとにして算定すると、年間50万から60万人にのぼったという。しかもそれは平常の年のことで、遷宮のある特別な記念の年には、その数倍の数の人々が全国から伊勢の地に集まった。これらの参詣者達を迎えるため、数多くの旅宿、案内所、土産物店が伊勢の地においてはもちろんのこと、途中の宿場の町にも軒を連ねていた。参詣者たちにとっては、伊勢神宮に参拝することが主要な目的であるの言うまでもないが、同時にその機会に、さまざまな土地をめぐり歩くことも大きな魅力であった。実際、お伊勢参りに行くと言えば、誰でも比較的容易に、安全に旅をすることができた。当時の記録によれば、お伊勢参りをする人々のなかに多くの女性や子供たちも含まれていた。

このお伊勢参りにかぎらず、江戸時代には旅はきわめて盛んであった。もちろんそれ以前にも旅をする人がいなかったわけではないし、紀貫之の『土佐日記』(10世紀)や阿仏尼の『十六夜日記』のような優れた旅の文学も残されている。しかし江戸時代になると、参勤交代の制度の確立や商品経済の発達によって人やものが大量に動き廻るようになったこと、また戦乱の時代が終わって長く平和な時期が続き、江戸見物や京見物のような物見遊山の旅が盛んになったこと、それらにともなって街道や宿場の設備が整えられ、飛脚制度の発達で全国的な通信連絡網が整備されたことなどの理由によって、旅をする人々の数は飛躍的に増大した。なかでも人々の往来が一番盛んであったのが、新興都市江戸と京都、大阪を結ぶ主要な幹線路であった東海道である。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(初編は1802年)が爆発的な売れ行きを見せ、広重の『東海道五十三次』シリーズが3種類も刊行されるほど大きな人気を集めたことは、東海道の旅がいかに強く人々の心を捉えていたかを雄弁に物語っている。

安藤広重『東海道五拾三次之内 原 朝之富士』

東海道の旅では、天気さえよければ、富士の雄大な姿を間近からゆっくり嘆賞することができる。それがまた、旅人たちにとっては大きな楽しみであった。実際この時代に数多く刊行された道中絵図や旅の案内書では、必ず富士の姿を目立つように描き、またその美しさに触れている。現在残されている数多くの旅日記や旅の記録には、富士を讃える記述がしばしば見られるし、旅で見た富士を描き出した絵や、富士を詠んだ和歌や俳句も多く伝えられている。

例えば、旅を好んだ芭蕉は『野ざらし紀行』のなかで、箱根の関を越えた時は雨が降っていて山は雲で覆われていたと記し、

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

と吟じた。詩人の心のなかには、実際には見ることのできなかった富士の姿がはっきりと映し出されていたと言うべきであろう。また京都の俳人蕪村は、江戸への旅を思い出しながら、

富士ひとつ埋み残して若葉かな

という絵のように鮮やかな名句を残している。

このように、富士を主題とする文学作品や絵画作品が数多く作られて評判を呼んだことは、旅人たちの土産話とともに、富士山のイメージを人々の間に広めるのに大きな役割を果たした。富士山に対する日本人の憧れがいかに強く大きなものであるかは、すでに江戸時代に、日本の各地に「ふるさと富士」がいくつも生まれていることからも明らかである。「ふるさと富士」は、また「擬富士」とも呼ばれているが、富士によく似た山を富士に見立てて、その土地の名を冠した富士と呼ぶ習慣である。例えば青森県の岩木山は「津軽富士」と呼ばれており、鹿児島県の開聞岳は「薩摩富士」として知られている。この「ふるさと富士」は近代になって次第に増えて、今では全国に350もある。土地の人々は、誇りと愛情をこめて自分たちの富士を生み出したのだが、そのことはまた、富士山こそすべての日本人にとって心のふるさとであることを物語るものであろう。

JAPAN ECHO Vol. 30, No. 1[2003年2月]に英語で掲載された論文”Mount Fuji in Edo Arts and Minds”の日本語版。日本語版の初出は、高階秀爾・田中優子編『江戸への新視点』[新書館/2006年]。)

この記事につけられたキーワード

世界遺産 浮世絵 富士山 日本画 美術 江戸 富士講

高階 秀爾TAKASHINA Shūji経歴・執筆一覧を見る

美術史家。大原美術館館長、東京大学名誉教授。1932年、東京生まれ。東京大学修士課程(美術史専攻)修了。東京大学文学部教授、国立西洋美術館館長などを経て、2002年から大原美術館館長。著書に『ルネッサンスの光と闇』(三彩社/1971年、中公文庫/1987年、芸術選奨文部大臣賞受賞)、『日本美術を見る眼―東と西の出会い』(岩波書店/1991年、岩波現代文庫/2009年[増補版])など。

このシリーズの他の記事