富士山の文化史

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高階 秀爾 【Profile】

富士山は、遠く古代の昔から日本人にとって賛嘆と敬意の対象であり、数多くの絵画や文学などの中に描かれてきた。なぜこのように富士山は日本人の心と深く結びついてきたのか。美術史家の高階秀爾・東京大学名誉教授が探る。

信仰の山

このような富士塚を最初に造ったのは、富士講の仲間の人々である。富士講は、富士への参詣登山を主要な目的として江戸時代に生まれた講(グループ)組織で、登山費用のため一定の金額を積立て、毎年1回、グループのメンバーの3分の1から5分の1程度の人々がまとまって登山し、3年から5年で全員の登山が完了するというのが通常の仕組みであった。登山といっても信仰のためであるから、参加者はまず麓の浅間神社にお参りし、沐浴して身を清めた後、白衣の行者姿で登頂し、山頂の神社に参詣する。参詣の後では、別のルートを辿って下山し、麓の町で宴会に興じるというのが通例であった。1回に登山する仲間は20人から30人程度で、専門の案内人がつき、旅程や宿泊施設も決められていたというから、今日のパック旅行に近いものと言ってよいであろう。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 諸人登山』

この富士講は、登山以外にも、病気平癒のための加持祈祷をしたり、災難よけの護符を頒布したりして大いに人気を集め、信仰の拡大を恐れた幕府のたびたびの禁令にもかかわらず次第に増大し、一時期は江戸市中に八百八講を数えるほどであったという。信仰対象としての富士山は、それほどまで江戸の人々にとって親しいものだったのである。

もともと日本では、古くから山岳信仰が盛んで、山そのものを御神体として拝したり、修験道の行者の修行の場として山に特別の霊力を認める例が日本の各地に見られるが、富士山も遠い古代以来、霊山として人々の崇敬の対象であった。

富士山がよく見える富士宮市に残る縄文時代のある遺跡は、富士を遙拝するための聖所であったろうと推定されているし、『万葉集』に収められた富士を讃える長歌の中で、高橋蟲麿は「日の本の 大和の国の 鎮(しずめ)とも 座(いま)す神かも」と歌い上げた。つまり、当時の日本全体を守護する神の山だというのである。

また、日本の修験道の開祖として名高い役行者(えんのぎょうじゃ)は、伊豆に流されていた時、毎夜富士の山頂に登って修行を重ねたと『日本霊異記』は伝えている。このような伝説は、先に触れた聖徳太子の騎馬登頂の伝説などとともに、富士を特別に神秘的な存在と見る人々の思いを物語っていよう。

9世紀に都良香(みやこのよしか)が書いた『富士山記』には、富士は神仙たちが集まり遊ぶ山であり、貞観17(875)年11月の祭りの日には、山頂で白衣の美女2人の舞う姿が見られたと記されている。この頃にはすでに、富士は火山の神浅間(あさま)の宿る山という信仰が広まり、遙拝所として浅間(せんげん)神社も建てられていた。現在は休火山である富士山も、歴史の上ではしばしば噴火を繰り返したことが記録されているが、天空に黒い噴煙を吹き上げ、時に「御神火」と呼ばれる炎を燃え上がらせる姿は、富士の持つ底知れぬ威力をいっそう強く人々に感じさせたことであろう。

日本で最も古い物語とされる『竹取物語』でも、最後の結末のところに、月の都に帰ったかぐや姫が残していった「不死の薬」を時の帝の命令で最も天に近い山の頂上で燃やす話が語られており、それ故にこの山が「不死の山」と呼ばれ、つねに黒い煙を上げていると述べられている。「富士山」の名前の由来についてのこの説明があたっているかどうかは別として、そこには実際に火を噴く山を畏敬の念をこめて眺めていた人々の実感が反映している。11世紀の中頃に書かれた『更級日記』は、その富士の特異な姿を簡潔に描写している。「その山のさま、いと世に見えぬさまなり……。山のいただきの少し平らぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火のもえ立つも見ゆ」。

「竹取物語 貼交屏風」より『天人の迎え、かぐや姫の昇天』(立教大学図書館蔵)

この御神火を見事に造形化した例に、豊臣秀吉が愛用したと伝えられる羅紗の陣羽織がある。これは、背面いっぱいに堂々たる富士の姿を表わし、上部に渦巻状の御神火、下部に水玉模様を配して火の神、水の神を表現した卓抜な構図で、衣装デザインとしてもきわめて新鮮なものである。その他にも、兜、具足、馬の鞍、刀のつば、小柄などの武具に、富士山の模様がしばしば用いられた。もともと富士山の主神である火山の神は女性神と考えられており、その優美な姿は戦場の道具にふさわしくないように思われるが、武将たちが富士模様を好んだ背景には、「富士」が「不死」に通ずるという信仰があったためであろうと思われる。

富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(大阪城天守閣蔵、写真複製禁止)

実際、富士は日本人のさまざまの信仰を受け入れる山であった。中世の神仏習合の時代には、山頂に仏教のお寺が建てられ、富士山頂に阿弥陀浄土があると説く一派まで登場した。現在残されている富士曼陀羅のなかには、山頂に阿弥陀三尊の姿を描き出したり、「南無阿弥陀仏」の名号を書き記したものがある。しかし江戸時代にはいるとともに、富士山の主神は『古事記』に登場する木花開耶姫(このはなのさくやびめ)であるという信仰が定着し、現在にまで受け継がれている。

また民間信仰では、富士は吉祥のシンボルでもあった。毎年正月2日に見る「初夢」によって1年の吉凶を占うという習俗は今日でも広く行われているが、その時に夢に富士山を見るのが最もめでたい、縁起のよいしるしとされている。

このように、富士信仰には、神道、仏教、道教(修験道)、民間信仰などさまざまの要素が絡み合っているが、それらすべてを通じて、富士は日本人の心と深く結びついているのである。

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美術史家。大原美術館館長、東京大学名誉教授。1932年、東京生まれ。東京大学修士課程(美術史専攻)修了。東京大学文学部教授、国立西洋美術館館長などを経て、2002年から大原美術館館長。著書に『ルネッサンスの光と闇』(三彩社/1971年、中公文庫/1987年、芸術選奨文部大臣賞受賞)、『日本美術を見る眼―東と西の出会い』(岩波書店/1991年、岩波現代文庫/2009年[増補版])など。

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