富士山の文化史

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富士山は、遠く古代の昔から日本人にとって賛嘆と敬意の対象であり、数多くの絵画や文学などの中に描かれてきた。なぜこのように富士山は日本人の心と深く結びついてきたのか。美術史家の高階秀爾・東京大学名誉教授が探る。

江戸の町と富士山

かつて奈良や京都が日本の都であった時代には、富士山は、名前はよく知られていたとしても、多くの人々にとっては直接眼にすることのできない遠い国の、いわば現実とは遠い存在であった。だが江戸の町の人々にとってはそうではない。富士山はつねに人々の眼の前にあった。

現在の東京でもよく晴れた日など、高層ビルのあいだに富士の姿が遠望されることがある。現代ではそれはごく稀にしか見られない現象だが、かつては、富士は江戸の人々にとって、はるかに身近な、大きな存在であった。浮世絵師たちが江戸の町とともに描き出した富士山が、しばしば実際にそう見える以上大きく描かれていることは、江戸人のこのような心情を反映している。

15世紀の中葉、まだ鄙びた寒村であったこの地にははじめて江戸城を築いた太田道潅は、自分の居室から富士の霊峰を眺めることを好んで、「わが奄は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」という歌を残している。風流を好んだこの戦国武将にとって、富士山は自分の家のすぐ軒先に見える日常的な風景の一部であった。

安藤広重『名所江戸百景 日本橋雪晴』

そのことは、江戸の町の人々においても変わらない。広重の『名所江戸百景』は、広重の描いた118点の「名所」に、彼の死後別人の手になる1点を加え、表紙絵とあわせて計120点の「揃い物」として販売されたが、そのなかの19点の作品に、富士の姿がはっきりと描かれている。例えば、春夏秋冬の4部に分類されたこのシリーズの冒頭を飾る「日本橋雪晴」の図では、清冽な雪に覆われた日本橋の情景の彼方に、白く輝く富士の姿が描かれている。江戸下町の中心であった日本橋は、富士を仰ぎ見る絶好の場所とされており、特に年頭の正月3日、この橋の上から「初富士」を拝することは、江戸の人々にとっては重要な年中行事のひとつであった。

また、同じ『百景』のなかの「する賀てふ(するがちょう)」の図では、西欧的遠近法を利用して画面手前から奥へずっと続く町並みのちょうど真上に、町を保護する巨大な笠のような雄大な富士の姿が見える。それは偶然ではなく、まっ直ぐ富士山の方向に向かうように町造りがなされたからである。「駿河町」という地名が、富士山のある駿河の国(現在の静岡県)に由来することは言うまでもない。そのほかにも、「駿河台」とか「富士見町」など、現在も残る富士山に因んだ町名が多く江戸の町に見られることは、富士がきわめて身近な存在であったことをよく物語っているだろう。

安藤広重『名所江戸百景 する賀てふ』

実際富士山は、江戸の町からよく見えただけではなく、徳川家康の開府以来の新興都市である江戸の都市計画においても、重要な役割を演じた。もともと日本の都市は、西欧や中国の都城と違って、奈良の平城京、京都の平安京以来、城壁を持たないことを大きな特色としている。町の境界である城壁がないだけではなく、西欧の凱旋門や戦勝柱のような、町のなかで目印となるシンボルとなるような巨大なモニュメントも持たない。日本の都市でランドマークの役割を果たすのは、人工の建造物ではなく、京都の東山がそうであるように、町の外にある山であった。江戸の場合、そのランドマークとなったのは、富士山と北の筑波山である。江戸の都市計画の基本理念となった風水思想によれば、西に街道が開かれるのが良いとされていたが、日本橋を起点とする東海道がまさにその街道にあたり、江戸から見てその目印となったのが富士である。歌舞伎狂言の『鞘当て』のせりふのなかに、「西に富士ヶ根、北には筑波、競ひ比べん伊達小袖」とあるように、江戸の人々は、朝に夕に、誇りと畏敬の念をこめて、富士の姿を仰ぎ見ていたのである。

江戸の人々の富士山に対する思い入れの深さは、江戸の町のなかに「富士塚」と呼ばれる小型の富士山そのものをいくつも造り上げてしまったことにもよく表れている。富士信仰の高まりとともに、江戸時代にはさまざまなかたちで富士登山が盛んに行われるようになったが、実際に登山できない人のために、町の中に築いたいわばミニアチュアの富士が「富士塚」である。ミニアチュアといっても例えば広重の『名所江戸百景』のなかの「目黒新富士」の図に描かれている富士塚は、高さが15メートルほどもあり、麓には鳥居を配し、山頂に仙元宮(浅間神社)を祭ってきちんと参道まで整備し、実際に登れるようにできていた。目黒にはもうひとつ、これも広重の『百景』の中に「目黒元不二」と題された図に描かれた同じような富士塚があったが、いずれも多くの参拝客で賑わったという。江戸の町には、この他にも合わせて7つほどの富士塚があり、現在でもその一部は残っているが、富士はまさしく江戸人の生活のなかにまで入り込んでいたのである。

安藤広重『名所江戸百景 目黒新富士』

安藤広重『名所江戸百景 目黒元不二』

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